昨日と同様に、今朝は遅めの起床となった。七時に目を覚ました時、突如として、オランダで過ごす残りの一年間に経験することの重さを知った。
残りの一年間の中で、自分は多様な経験を積み、それらの一つ一つが大きな総体の一部になっていくだろう。そんな確かな予感があった。
これは不思議な予感だった。人が発達や学びを深めていく際に、経験というものについて考えることを避けることはできない。
欧州での日々が積み重なっていくことに応じて、経験の持つ意味が少しずつ変容していき、経験そのものの質も変容していった。起床直後の私の脳裏には、「経験に勝るものはない」という考えがよぎっていた。
単なる行動でも体験でもなく、それらが自己の深層にまで降りていき、そこで発酵された後に姿を見せる経験というものに、私はもう一度出会ったかのようだった。起床直後のあの不思議な感覚は、経験との出会い、もしくは再会と名付けていいかもしれない。
欧州での日々においては、私の内側に時間が流れていくのではない。私の内側に経験が堆積されていくのである。
過去の経験が純化され、新たな経験が醸成されていく。そんなことを思わずにはいられないのだ。 昨日もまた、日々を積み重ね、経験を醸成させていくことの価値と尊さを体験していたことを改めて思い出す。昨日は、卒業証書授与式があった。
式の中で私は、ラテン語、オランダ語、英語の卒業証書のみならず、学位取得のために履修してきた各コースの成績書も手渡された。式が終わり、自宅に戻ってから、改めて卒業証書と成績書を眺めていた。
この一年間、この大学で何を学び、大学の外で何を学んでいたのかを回想していた。随分と多くの経験を積み重ねてきたような実感があった。
確かに、大学の探究活動の中で数多くの知識を獲得するための修練を積み重ねてきたが、それよりも、知識を獲得しようとする自己そのもの、あるいは、知識を咀嚼する自己そのものが変容したと実感できることが、何よりも意味のあることだと思う。
欧州での生活を通じて、知識と向き合う自己が変容し、知識を創造する自己の芽が生まれたことを実感している。日本で過ごしたこれまでの歳月と、米国での四年間を経て欧州に来たことの意味が、徐々に自分の中で明瞭になりつつある。
私は欧州に来る必要があったのだと思う。仮に日本で人生の全てを過ごしていたら気付けなかったこと、経験できなかったことがどれほど大きなものであるかを知る。
また、仮に米国で引き続き生活をしていたら気付けなかったこと、経験できなかったことがどれほど大きなものであるかを知る。偽りや誇張なく述べると、やはりこの世界の特定の場所には、そこでしか喚起されえぬ感覚と経験がある。
その背後にあるのがまさに、その場所で生活をしてきた無数の人々たちが積み重ねてきたものなのだと思う。それを人は文化と呼ぶのかもしれない。
文化というのは、個人の経験の発酵と積み重ねが、他者の経験と出会った末に生まれる集合的経験と形容することができるかもしれない。 フローニンゲンの秋の土曜日のとある朝。静かな風と共に雨が天から降り注ぐ。
欧州で過ごすこれからの一年間に少しばかり希望を見出している。この一年間が終われば、再びまた新たな場所で日々を形づくっていきたいと思う。
米国に戻り、そこで長い時間を過ごした後、再び欧州の地に戻ってきたいと思う。その先の先に、日本が必ずあるはずだ。2017/10/7(土)08:12
No.271: Indescribable Doubt of Scientific Work I obtained a diploma for my second master’s degree last Friday.
I am honored to receive it from one of the most prestigious research universities in the Netherlands. I want to continue to devote myself to scientific work.
However, indescribable doubt of science showed up within me last night.
I said to myself in mind: “I believe philosophy and music more than science. Scientific work has significant meanings, but it gives me a somewhat desolate feeling.”
The diploma proves that I can conduct scientific research and write a scientific article by myself. I am willing to do it because one of my vocations is scientific work.
Yet, what was the bleak feeling last night? Probably, it prevents me from devoting myself to scientific work from my heart.
In fact, I still cannot start continuous writings for academic articles. I am waiting for something with this desolate feeling, but I know that my volition is ahead of the unutterable doubt of science.
It can be a safety valve and a necessary ordeal. Once I detect the true nature of the feeling and transform it, I will truly devote myself to scientific work and begin ceaseless scientific writings. 07:30, Sunday, 10/8/2017