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1624. アーネムとユトレヒトに向けて


一つの夢が終わるのと同時に、今朝は五時前に一度目を覚ました。しかし、もう少しばかり睡眠が必要な気がしたため、そのままベッドの上で横になっていた。

二度寝から目覚めると、朝の七時だった。普段はこの時間よりも前に起床しているため、辺りは闇に包まれているのだが、もうこの時間帯は闇ではなく、ダークブルーの空に変わっている。道を走る車が、水しぶきを上げている音が聞こえる。

昨夜はまた雨が強く降っていたのだろう。天気予報を確認すると、どうやら今日も雨のようだ。今日は午後から卒業式があるというのに。

よくよく考えてみると、秋の季節に行われる卒業式を経験するのは始めてのことだ。日本で卒業してきた学校は春に卒業式が行われていたし、米国の大学院を卒業した際は、初夏の六月に卒業式が行われていたように思う。

また今回は、卒業式の後にも大学に残るという点においても、これまで自分が経験してきた卒業式とは少し様子が異なる。雨の中の卒業式というのも、一興だろう。 昨日は、来月にアーネムに訪れ、再来月にユトレヒトに訪れる計画を立てていた。アーネムはライン川に沿ったオランダ南部の都市である。

この街には緑豊かな庭園や公園が多く、「庭園都市」や「公園都市」とも形容されている。この街に訪れることになったのは、研究関係のちょっとした所用のためであるが、アーネムの街について調べていると、なかなか魅力的な街だということに気づいた。

特に、アーネムの中央駅から北に数キロほど上がったところにある、デ・ホーヘ・フェルウェ国立公園に足を運んでみたいと思った。アーネムに訪れるのは来月の中旬ということもあり、もしかすると紅葉が綺麗かもしれない。

また、この公園内にはクレラー・ミュラー美術館という美しい美術館がある。国立公園の中にたたずむこの美術館は、ヴァン・ゴッホの作品を数多く所蔵していることで有名とのことである。

今から二年半ほど前に、私はアムステルダムにあるゴッホ美術館を訪れた。それ以降、なぜだか時折、ゴッホの存在や彼の作品が気になることが度々あった。

そして、この夏にオスロのムンク美術館に訪れた際に、再びゴッホの実物の作品を鑑賞したいという強い思いに駆られるようになった。クレラー・ミュラー美術館は、ゴッホの作品に関して、アムステルダムのゴッホ美術館に次ぐほどの作品を所蔵しており、それらは「二大ゴッホ美術館」と呼ばれている。

何気なくアーネムの街に行き、そのままフローニンゲンに帰ってこようと思っていたが、アーネムの街でゆっくりと過ごしたいと思った。というのも、フローニンゲンからアーネムまでは電車で行くと、片道でおよそ二時間半かかる。

また、アーネムの中央駅からクレラー・ミュラー美術館までは距離があり、バスを活用しなければならない。研究関係の所用が終わるのは午後の三時であるため、そこから美術館に向かってしまうと、ほぼ閉館時刻となってしまう。

そうしたことから、デ・ホーヘ・フェルウェ国立公園のすぐ近くにあるホテルに一泊することにした。このホテルは、一歩外に出ると、すぐに国立公園の緑が広がる素晴らしい立地にある。

日帰りではなく、クレラー・ミュラー美術館をゆっくり堪能するために、アーネムの街に一泊することになるとは思ってもみなかったが、今から心が躍る。 最後に、同じく研究関係の一環で、再来月の12月にユトレヒトに訪れる。ユトレヒトはオランダを代表する都市であり、ユトレヒト大学は国内最大の大きさを誇る。

昨年まで論文アドバイザーを務めてくださっていたサスキア・クネン教授は、ユトレヒト大学で教鞭をとっていたこともあり、ミーティングの中で何度かユトレヒトの街と大学について話をしてくれた。しかし、それ以外にはユトレヒトとの縁がなく、これまで一度も足を運んだことがなかった。

今回は縁もあり、この街に初めて訪れることになる。ユトレヒトに訪問した際には、オルゴール博物館に是非とも足を運びたい。

やはり、この世界に存在する特定の場所というのは、しかるべき時にしかるべき理由で、自分とつながるのだということを改めて思う。

アーネムにせよ、ユトレヒトにせよ、そして、デ・ホーヘ・フェルウェ国立公園内にあるらクレラー・ミュラー美術館にせよ、オルゴール博物館にせよ、全ての場所は、しかるべき時期にしかるべき理由で私の目の前に突然現れたのである。

私たちは人との縁のみならず、場所との縁の恩寵を絶えず受けながら日々を生きているような気がしてならない。2017/10/6(金)08:02

No.269: Encounters with Experience When I woke up, I suddenly began to contemplate the profundity of experience that I will have for the rest of year in Europe.

I will have various experience, and I will be the experience. Veritable experience is never possessed, and thus, it is bizarre to express “I have experience” or even “I experience something.”

Authentic experience forces us to be it. This is compulsion derived from genuine experience.

I “encountered” experience in the early morning. It seemed that the experience was waiting for me to be it.

I encountered or re-encountered experience. Perhaps, our life is the process of recurrent encounters with experience.

If our genuine experience is the subject, we always encounter ourselves everyday at every moment. 08:33, Saturday, 10/7/2017

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