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1582. 自己偽装と六人の作曲化


どこか少しおかしい。昨日は、日本語である程度の日記を書いていたのだが、日本語で文章を書き留めようとする衝動が収まらない。

このような状態における最善策は、衝動を抑圧することではなく、衝動に適切な形を与え、ふさわしい姿で外側に出すことである。一体何を書き足りないのかさえわからない。

先ほど書斎のソファに腰掛け、朝食のリンゴを食べている時に、何か激しいものが自分の内側を通っていた。フローニンゲンの日曜日の朝はこれほどまでに平穏なのに、自分の内側は何かで燃えたぎっていた。

朝食を食べながら考えていたことの矛先は、やはりこの社会において日々をいかに生きるのか、ということに関係した主題に向かっていたように思う。リンゴをかじった瞬間から、リンゴを食べ終わるまでに、その主題に対する考えが最初から終わりまで滞ることなく進行していた。

その進行を全て見届けたところでソファから立ち上げると、自分が何を考えていたのかすっかり忘れてしまった。ただし、重要な言葉として残っているのは、「自己を偽ることを暗黙のうちに促す社会」というものだった。

これは先ほど考えていた、なぜ文章や曲を書けないのか、というテーマと関係したもののように思える。端的に言えば、それは知識や技術的な事柄を超えて、単純に自己を偽るからではないか、という考えが浮かぶ。

自己を偽っている限りにおいて、いかに知識や技術があろうとも、文書や曲など作れない。これは、多くの人にも当てはまることではないだろうか。

知識や経験が豊富にあったとしても、日々何かを記しながら生きることは容易なことではない。日々を記し、自らの人生を記していくという生き方は、自己を偽ることを許さない。

自らの人生が自己のものであるから、それは当たり前だと言えるかもしれない。しかし、この当たり前な事柄に従事させないような社会的風潮が蔓延しているように思えて仕方ないのだ。

自己を偽りながら生きることに苦しさを感じることができるのは、良い兆候だ。なぜなら、自己を偽っていることさえ気づかせないような形で、私たちの生を方向付けようとする集合的な力が、もはや無視することのできないほどに、この現代社会を覆っているからである。

自己を偽ることなく、自らの人生を真に生きるということを許さないこの現代社会は、やはりどこかがおかしいのではないかと思う。 昨夜から引き続き、今私は、モーツァルトと同時代に生きた、イタリアの作曲家ムツィオ・クレメンティのピアノ曲を聞いている。「モーツァルトのピアノ曲よりも、クレメンティのピアノ曲の方が洗練されている」とベートーヴェンが評したように、クレメンティのピアノ曲に今の私は強く惹きつけられているようだ。

昨夜の作曲実践の中で、どのような作曲家からどのように作曲技法を学んでいくか、ということについて改めて考えていた。つまり、範を求める作曲家の選定と、彼らの作品をどのように参照していくか、ということである。

私がとっさにノートに書き出していたのは、グリーグ、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、クレメンティの六人の作曲家の名前だった。その他にも偉大な作曲家は数多く存在しており、実際に彼らの曲を日々聴いているのだが、当面の作曲実践に関しては、上記の六名に範を求めようと思う。

彼らの楽曲からどのように学んでいくかということに関しては、一人の作曲家に集中的に特化するのではなく、六名の作品を上記の順番で円環的に参照していく方法を取ることにした。

バッハから入るのではなく、グリーグから入ることにしたのは私の個人的な思いからであり、クレメンティを最後に起き、円環の始まりのグリーグの前に置いたのは意図がある。バッハからシューベルトに至る流れに関しては、これは歴史的系譜に沿ったものである。

また、彼らの作品を参照する場合、作品全体を参考にするのではなく、まとまりを持つ作品の断片から学びを得たいと思う。六人がなす円環をぐるぐると回り続ける日々がこれから始まる。2017/9/24(日)09:43

No.228: Argumentation Diagrams I came back to home from the campus. I participated two lectures today, both of which gave me new perspectives of educational science.

One of the lectures focused on technology and learning; it is one of my current research topics.

The lecturer introduced a very intriguing tool that is called “argumentation diagrams.”It is basically utilized for supporting learners so that they can think systematically and connect various concepts more easily.

I came up with a new idea to use it for a research purpose. Since one of my research perspectives is discourse analysis, I had been seeking for a tool to make argument diagrams for a long time before I came across this tool.

If I can make diagrams automatically——or at least more efficiently——, that would be beneficial for my research.

After making argumentation diagrams, I will analyze the degree of complexity of argument structures. Plausible criteria would be the number of support claims and examples for an argument.

Because the outcomes of the argumentation diagrams look networks, I might be able to apply some techniques in network science to quantify the degree of complexity in another way. 15:49, Monday, 9/25/2017

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