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1559. 知識習得過程の観察


今日は午前に「学習理論と教授法」の講義と午後に「評価研究の理論と手法」の講義に参加した。どちらの講義も毎回自分にとって実りが多く、それらの講義に関してどこから何を書き留めておこうかいつも迷う。

記述の初期値設定問題については、実は偶然ながら今日の昼にも考えていたテーマであり、なぜ自分がある書き出しをその瞬間に選んでいるのかとても不思議に思うことがよくある。

そこには当然ながら、自覚的な意図を伴うことがしばしばだが、その自覚的な意図が働く前の無意識的な創造プロセスにとても関心がある。この問題は今のところ、問題の輪郭すらも明瞭にすることができていないので、この問題へ取り掛かることは極めて難しい。

だが、書き出しという記述の初期値がどのようなものであるかは、記述の最終地点がどのようなものになるかを決定づけるものであるため、この問題は非常に興味深い。

今朝方、講義に参加する前に自宅で考えていたことが、そっくりそのまま今日の講義で取り扱われた。一つには、学習プロセスの中に、いかに余白を設けるかというテーマだ。

「銀行型学習」のように、知識を休みなく詰め込もうとすることには大きな問題があり、知識を咀嚼するのに十分な時間的・精神的な余地を与えながら学習を進めていくことは、堅牢な知識体系を構築する上で鍵となる。 本日の講義を通じて、もう一つ考えていたことは、自分の学習プロセスの再検証の必要性だった。これはおそらく、私だけに当てはまることではなく、多くの人に当てはまる事柄なのではないかと思う。

身も蓋もない言い方をしてしまえば、私たちはあまりにも無意味な学習に従事しているということである。言い換えると、学習項目を真に我が物にし、知識体系を深め、認識世界を豊かにすることとはかけ離れた形で、私たちは日々の学習行為に従事しているのではないかということだ。

学習項目を自己に体現化させるためには、少なくとも三つの事柄に注意をしなければならない——観点を変え、次元を上げ下げすれば、注意しなければならない事柄など無数にある。

一つは、自分が何を食べているのかわからないものを食べすぎだという問題だ。端的に言えば、自分の言葉で説明できないような膨大な知識項目に単に晒されすぎだということだ。

そこには、能動的にその知識項目を咀嚼しようとするような意図はなく、ましてやそれを自分の言葉で説明する実践などもなく、膨大な知識項目に対して受動的に接している態度が顕在化する。このような態度は、知識を自己の内側に体現化させることとは対極にあるものだ。

自分自身でその知識項目を説明したり、自分のこれまでの知識と経験に引きつける形で文章を書くなりするという、知識への能動的な向き合い方の次に重要になるのは、上述したように、学習プロセスの中に余白を設けることである。

思うに、多くの人は、全く余白がないか、余白しかない間延びした学習空間が自分の内側に生起しているのではないかと思う。どちらも極端であり、それらは共に、知識を体現化させる上では不適切だ。

自分自身の学習空間を眺めてみると、そこには極度に余白のない世界が広がっていることに気づかされたため、最近は特に意識的に余白を設けることを心がけている。新たな知識が自己の深層に浸透していく時間的猶予と、深層に到達してから咀嚼運動が始まるまでの時間的猶予を少なくとも設けなくてはならない。

そうした余白を設けて初めて、新たな知識項目が既存の知識のネットワークと活発に結びつき始めるのだと思う。容易に想像できるが、次から次へと上から知識項目が降りてくると、最初の知識項目は後から押し寄せてくる知識項目によって、咀嚼運動と自由な探索運動を妨げられてしまうだろう。

三つ目として重要になるのは、知識への能動的な向き合い方と余白の設定に関するモニタリングと、実際に知識項目がどれだけ定着しているのかを自己評価することだ。この最後のプロセスは、自分でも蔑ろにしがちである。

というのも、ここでは知識の性質を深く理解していることが求められ、さらには、自己の無能さと向き合う必要があるからだ。そもそも、一つの知識が点として自己の内側に確立されることすらも難しい。

しかも、そのプロセスの中には停滞や退行がつきものだ。また、一つの点としての知識は、繰り返しの実践によって、徐々に時間をかけながら確立されていく。

この単純な理解が欠けている場合、自分の知識の定着度合いを評価すると、しばしば自己の無能さに直面するだろう。知識が緩やかにしか構築されていかないというのは、実際には無能さによるのではなく、知識の構築プロセスが内在的に持つ不可避な特徴による。

その点を押さえておかなければ、自己の無能さに不必要に苦しめられ、知識の習得状況を適切にモニタリングすることができず、その都度その都度に打つべき打ち手を打つことができなくなるだろう。

今後は、少なくとも上記の三つの点を特に意識することによって、自分の知識構築プロセスの進捗度合いを観察しようと思う。2017/9/18(月)18:24

No.205: Burnout Problem Burnout has been a social issue in many countries.

I had heard of the terminology when I was in Japan, but I had never seen people around me who suffer from the problem.

However, I have already seen two persons in the Netherlands. I could not notice at all any symptoms of their burnout.

I found some explanations of the causes, but I thought that they were rather cursory explications. I imagine that deep causes exist beneath this issue.

The modern society coaxes us to strive for achieving something that does not derive from individuals but from others or the society.

Social pressure to impel us in some activities without personal meanings might be one of the factors of burnout…

Most people in this modern world might be candidates for burnout because they are likely to blindly follow social expectations or to try to achieve something recklessly that is devoid of personal meanings. 13:45, Wednesday, 9/20/2017

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