今日は早朝から、何だかとても活力に満ち溢れている。フローニンゲンの寒さなど物ともしない熱情が自分を包む。
炎に炎を注ぐことなどできない。これはすでに完全であり、いつも常に私の中に絶えずあるものだ。
ただ、私がこの完全な炎に気づけないことが時にあるだけなのだ。早朝の起床時に最も驚いたのは、今日がまた始まったということだった。
始まったのは昨日でも明日でもなく、今日だということへの純粋な驚き。自分は昨日に生きたことはなく、明日に生きたこともない。
昨日を思い出し、明日に思いを巡らせることはできても、昨日を思い出す自己と明日に思いを馳せる自己は、今日の自分に他ならない。いつまで経っても今日の連続。
今朝目覚めた時、目覚めに気づいたのは、昨日の自己でも明日の自己でもなく、今日の自己だった。早朝から笑いが込み上げてきた。
それは、自分がいついかなる時も、常に今日に生きているということへのシンプルな事実に対する笑いだった。昨日も、いつもと同様に、その日があっという間に過ぎ去ったように感じられた。
確かに、私はその日において、自分のなすべき仕事に絶えず従事していたから、時間があっという間に過ぎ去ったというのも納得がいく。だが、私は徐々に、この「絶えず何かに従事する自己」とは異なる自己を自分の中に見出しつつある。
それは絶えず何かに従事する最中にあって、何にも従事しない者である。私が日々、自分の仕事に安心して没入することができているのは、この何にも従事しない者の存在のおかげかもしれない。
最初私は、日々の生活の中で絶えず仕事に従事する自分をコマに喩え、何にも従事しない者をコマの軸に喩えた。確かに、日々何かに従事する私の姿は、回り続けるコマに似ており、何にも従事することなく、何かに従事する私を見守る者はコマの軸のように思えた。
しかし、後者の存在は、コマの軸ですらなく、もしかすると、コマの軸が立つための地面、もしくはコマと軸を取り巻く諸々の力の総体なのではないかと考えを改めた。
今朝はいつもより早めにコーヒーを入れた。今日は日曜日であるから、少し前に立てた誓いを守ってみたい。
それは自分を探究に駆り立てる衝動を緩め、少しばかり探究から離れるというものである。もちろん、今日という日において何もしないということではない。
そこまで離れることは今の私にはできず、そうしたことが可能な成熟の境地には至っていない。書物から何かを得ようとするような一見純粋な動機や、思いついた思考や感覚を書き留めようとする一見純粋な動機を振るいにかけ、最後に残った動機だけに従って行動するような一日にしたいのだ。
それはもしかすると、普段と変わらず専門書や論文を読むことかもしれないし、文章を執筆することかもしれない。あるいは作曲をすることかもしれない。
いずれであったとしても、それが純粋な動機がさらに振るいにかけられ、最も純粋な必然動機を基にした行為であるかどうかが重要なのだ。そうした行為をなすためには、何はともあれ、探究衝動を緩め、それと一定の距離を取ることが求められる。
コーヒーメーカーが音を鳴らし、彼の仕事が終わったことを告げる。今日は早朝からゆっくりとコーヒーを飲みながら、くつろぎの中で仕事を進めていきたいと思う。2017/9/17(日)
No.200: Transparent Volition Transparency is penetrating my will.
The dream I had last night symbolized the lucidity that floods into my volition. We often conceive of our future dream——what we want to do or what we want to become.
However, that is not a real dream. Our real dream cannot be seen because it is nothing but our luminous will.
If we fail to realize the essence of our real dream, we will continue to deplore or complain that our dream does not come true yet.
Our real dream always already comes true when we notice that it is nothing else but our transparent volition. 07:06, Tuesday, 9/19/2017