今日も気付けば早いもので夕方の時刻を迎えた。時に自分がその日に何をしていたのかがわからなくなってしまうほどに、時間が過ぎ去るのが早く感じる。
学術研究と作曲実践に今日も取り組んでいると、気付けば一日が終わりに近づいていた、というのが毎日の感覚である。その日に自分が何に取り組み、どのようなことを考えていたのかを書き留めておかなければ、本当に何をしていたのかが分からなくなってしまうほどに、時の流れ中に入り込んでいる。
肯定的な見方としては、日々の活動の全てがある種の没入体験であるがゆえに、時間が過ぎ去るのが早いと捉えることができるだろう。しかし、仮に何も振り返りをせずに没入体験だけを通じて日々を生きていては、自分の中に刻印されていく何か、あるいは、構築されていく何かを真に実感することはできない。
自分の中に真に知識や経験を構築していくためには、没入体験を消費するのではなく、それを書くことを通じて咀嚼するという行為が不可欠だ。それをしなければ、没入体験の単なる体験主義に陥ってしまうだろう。
今このようにして文章を書いているのは、光よりも早く過ぎ去る時の流れにくさびを打つためであり、そのくさびこそが自分の知識と経験をさらに深めるための拠り所となる。要するに、自分が毎日の要所要所で文章を書き綴っているのは、そうした拠り所をなんとか作ろうとする試みなのだ。
時の流れに従って生きるというのは、その流れの中に自らの存在が体現されたくさびを打ち込み、自分自身の時の流れを生み出すことによって、その流れに後押しされて歩んでいくことなのだ。 今日は午前中にふと、今年の三月に訪れたザルツブルグの記憶が蘇ってきた。想起された記憶はとても具体的であり、モーツァルト博物館を訪れた時に、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが幼少期の頃に姉のマリア・アンナ・モーツァルトのために作曲したピアノ曲の自筆の楽譜を購入しようか迷っていた記憶だった。
モーツァルトが幼い時に作曲した曲が自筆で掲載されていることもあり、資料的な価値も非常に高いと思ったのだが、その時は結局購入することはなかった。というのも、当時の私は自分が本格的に作曲実践を行うとは思ってもおらず、そうした楽譜は特に必要ないと考えていたからだ。
今朝突如として、あの楽譜に記載されていた豊富な小作品が気になり始めたのだ。近々ではないが、もしかすると、あの楽譜を現地で購入するために再びザルツブルグを訪れることがあるかもしれない。
夕日が沈みゆくフローニンゲンの空を眺めながら、そのようなことをふと思った。2017/9/5(火)
No.157: Egregious Liars in Our Society Modern people are egregious liars.
They deceive themselves not to live their own life. Instead, they are living a deceptive and artificial life constructed by the ideology in the modern world.
The modern education completely collapses in that it deviates its fundamental purpose; that is to emancipate and liberate us.
How many people discover their inner voices and express them to deeply participate in our society?
I think that one of the most important purposes of education is to enable and encourage us to do so. Friday, 9/8/2017