論文創作にせよ、作曲にせよ、何はともあれ、内側から湧き上がる止むに止まれぬ創作意欲は間違いなく不可欠なものだ。そうした絶え間なくほとばしる創造エネルギーがなければ、絶え間なく論文を執筆することや曲を作ることなどできはしないだろう。
同時に、そうした内発現象のみならず、やはり内側のものを文章や曲の形にするための方法論も不可欠である。そうした方法論がなければ、創作意欲だけあっても、実際に内側の思考や感覚を表現物として形に残すことができない。
大切なことは、己の中に表現すべき明確な主題があり、それをこの世界に形として残すことであるため、内発的な創作意欲だけあってもダメであり、方法論だけがあってもダメなのだ。どちらも表現物を残すために必要な二極なのだ。
今の私はおそらく、創作に向けた内発衝動が過多であって、それを実際に論文や曲の形にしていくための理論と技術が欠如している。それを自覚する必要があるだろう。
しかもそれは、過去の研究者や作曲家が残した理論と技術を徹底的に学ぶことを超えて、自分なりの方法論の確立という次元にまで高めていかなければならない。他者が苦心して築き上げた理論と技術を徹底的に学ぶことは最低限のことであって、そこから自分の手で方法論を構築していく必要があるのだ。
それをしなければ、呼吸をするのと全く変わらずに論文と曲を生み出していくことなどできない。何としてでも自分が行いたいのは、最後の日まで絶えず絶えず論文と曲を作り出していくことなのだ。
呼吸をするよりも自然に、自由に文章と曲を生み出していきたい。それに向けて今日がある。 昨日も作曲理論を学んでいる最中に、その習得プロセスが非常に遅いものであることに気づいたが、もはやそこには焦りのようなものはない。知識や技術が真に自分の内側に構築されていくプロセスは、非常に遅いものなのだ。
昨日もたった一つだけだが有益な理論を学んだ。以前に受講していたシンガポール国立大学の作曲講座のMOOCをもう一度視聴し始め、一つ一つの学習項目をゆっくりと進めている。
以前に受講していた時には、音楽理論に関する理解が全く無い状態だったために、何が話されているのか全くわからなかった。しかし今は、音楽理論に関するある程度の基礎を確立したため、この講座の内容が理解できるようになっている。
この講座はクラシック音楽の作曲のためにあり、内容も非常に実践的なものであるため、絶えず手を動かしながら作曲理論を学ぶことが何より大切である。作曲理論を自分の身体を通じて習得していくこと。
そのためには、実際に作曲をするという実践を行うことが不可欠なのだ。今日は、発達心理学者のハワード・ガードナーが執筆した “The Quest For Mind (1973)”を読み、最初の学期に履修するコースの中で最も難易度が高いであろう「評価研究の理論と方法」で課題文献となっている “Evaluation: A Systematic Approach (2004)”の二読目を開始したい。
特に後者の書籍に関しては、初読時にその概要を把握するような読み方を行っていたため、二読目は、一つ一つの文章を丹念に読み込むということを心がけたい。毎週のクラスの前に丹念な再読を行い、クラスの後に簡単に三読目をする。
そして試験前に何度もテキストを読み返すということを行う。そうしたプロセスで、実証的教育学の理論と手法を骨身にしていく。 二冊の書籍を読むことが終われば、いつものように、残りの時間は全て作曲実践に充てる。引き続き、シンガポール国立大学の作曲講座を履修しながら、自らの手を動かすことをもって作曲実践をしていく。
画家がデッサンをするように、滑らかに自然と曲が生み出せる次元にまで作曲技術を高めたい。その瞬間瞬間に自分を捉えて離さないものを正確に音として描写していく技術。
自然と速やかにかつ滑らかに、あるべき形のものがあるべき姿で音として具現化されるところまで自らの作曲技術を研ぎ澄ませていく。それに向けて今日の仕事と実践がある。2017/9/5(火)
No.156: Philosophy of Education and Evidence-Based Education It is crucial to provide education based on scientific evidence. That is why I am currently engaging in the field of evidence-based education (EBE).
I cannot doubt the importance of educational practice on the basis of scientific evidence, but I have to be more prudent in implementing EBE into the actual educational practice.
We cannot provide education only with scientific evidence. Educational practice inevitably involves value judgment——normative judgment.
In other words, if educational practitioners (e.g., teachers, policy makers, etc) lack sagacious value judgment, the quality of education will dramatically decline.
To enhance the standard of my value judgment on educational practice, I will continue to explore philosophy of education. Friday, 9/8/2017