部屋全体に静かなピアノ曲が響き渡る。そんな中で先ほど昼食を摂り終えた。
昼食後、書斎に戻ると、机の前に座った瞬間に、先ほどのゼミナールのクラスの内容が思い出された。それほどまでに今日のクラスは、自分にとって意味のあるものであったように思う。
とりわけ今日は、内省実践のトピックに関するやり取りが印象に残っている。その中で、自分の内側にあるものを形として外側に表現していくことの重要性に言及した。
内的現象を外側に表現する手段は様々なものがあるが、これまでの日記で紹介していたように、ダ・ヴィンチにせよ、モーツァルトにせよ、ムンクにせよ、彼らは一様に文章を書くことによって絶えず内省実践を行い、絶え間ない内省実践を通じて自らの探究を進めていった。
その探究の成果がまさに、彼らの領域における高度な能力とそれが具現化した作品群である。今日のクラスの中では、文章を書く際に型を習得することの重要性などにも話題が及んだが、それ以上に重要な気づきがあったのでそれを書き留めておきたい。
内的現象を外側に表現する際に、誰もができる実践として挙げられるのは日記の執筆ではないかと思う。これはその日に何があったのかを書くというよりも、日々の瞬間瞬間に得られる気づきや考えなどを書き留めておくためのもである。
そのため、決して今日何があったのかという外面的な記述で終わるようなものではない。今日という一日の中で何が起こり、そこから自分自身がどのような気づきや発見をしたのか、そしてそうした気づきからまた新たな問いを立てていくということを、文章を書きながら行っていくのである。
とかく私たちは、体験から成長への一歩を進めたがるが、そうではない。体験を通じて得られた自分なりの気づきや問いから成長への一歩が始まるのである。
つまり、体験を文章として記述することによって、そこから得られた気づきや問いから探究をスタートさせるのである。自己の体験に立脚し、自己の気づきと問いに立脚して歩んでいくことを忘れてしまっては、成長も発達もなしえないだろう。
日々の生活の中で絶えず自分自身を綴っていくということは、「刻成」につながる。刻成とは、刻みながら成るという意味であり、私たちは自己を綴る過程の中で日々の体験を自己に刻み、そこから先に待つさらに成熟した自己へと成っていくのである。
刻みながら成る過程で起こっているのは、まさに「発達(development)」という言葉の語源であるフランス語の “desvolper”が示すように、自己を開いていくということなのだ。日々の体験を自分の中に刻みながら自己を開いていくこと、それが発達の要諦である。
そして何より、自分の人生は自分で綴るものではないだろうか。人生は自著の産物である。2017/9/2(土)
No.147: Language Use and Intellectual Level According to Jean Piaget Jean Piaget argues that human intelligence is determined by the range of actions that a person can perform in the real world.
The degree of actions can be evaluated how sophisticated mental operations are. Piaget’s assertion is that intellectual levels determine how the person uses language.
Yet, the opposite is not true in terms of Piaget’s view. This argument is quite intriguing because almost all of the current developmental assessments are based on the presumption of how a person uses language determines his or her intellectual level.
However, Piaget’s rationale for this point is still vague to me. Thus, I need to read his books again. Tuesday, 9/5/2017