科学的探究を通じて科学的に自己を知り、哲学的探究を通じて哲学的に自己を知り、作曲実践を通じて音楽的に自己を知る日々が続いていく。そうした日々が自らの道になる日が来るまでに、まだ多くの年数を要するだろう。
学術研究も作曲実践もそれが日々の瞬間瞬間の呼吸と同じように行えるようになる日まで、鍛錬に次ぐ鍛錬を続けていきたい。一秒と一秒の間にある量子的な時間の粒が押しつぶされてしまうぐらいに、学術研究と作曲実践だけを行う日々がやって来て欲しい。
そのような思いが日増しに強まる。呼吸ができなくなる日が、自分にとっての学術研究と作曲実践の終わりを示す日であるように、そこに向けて日々を生きて行く。 先日、ふとしたきっかけで、ムツィオ・クレメンティというイタリアの作曲家の存在を知った。彼を知ったのは、エドヴァルド・グリーグの楽譜を注文した時に、ちょうどクレメンティの楽譜が注文画面に表示されていたからだ。
クレメンティという名をこれまで一度も聞いたことがなかったため、少し調べてみると面白いことがわかった。彼は、モーツァルトと同時期に活躍していた作曲家であり、「ピアノの父」と呼ばれているぐらいに多数のピアノ曲を残している。
特に、100曲以上のピアノソナタを作曲し、ソナチネも多数作曲している。印象的だったのは、ベートーヴェンはピアノ曲に関してはモーツァルト以上にクレメンティの作品を高く評価していた点である。
このような事実を知り、クレメンティに対する関心が高まった。彼の作品を早速ダウンロードし、作曲実践のための楽曲分析に用いるために、クレメンティのソナチネの楽譜を購入した。
ピアノソナタのように比較的長い曲よりも、まずは最初に短めのソナチネから分析を行いたいと思った。これまでのところ、作曲実践に向けた楽曲分析のために、幾人かの作曲家の楽譜を購入したが、やはり多様な作曲家の曲を聴き、それらを分析していくことが必要だと最近強く思う。
これは学術論文を執筆する時も全く同じであり、注目に値する学者の文体と文章構成を模倣するために、彼らの論文を分析的に読み進めたのと同じことを楽曲に対しても行っていく。単に彼らの作品を聴いていても何も見えてこない。
ここで重要なのは、何かを見るためには観点が必要だということである。つまり、楽曲分析の観点であり、同時に分析を進めるための手法が必要になる。
そうした観点と手法を提供してくれるのが、音楽理論であろう。音楽理論の学習を通じて、自分の魂に共鳴する楽曲を選んで分析作業を進めていくことは、作曲のための大切な土台を作ってくれる。
そこからさらに、作曲の方法論自体を学んでいくことも大切だ。音楽理論にせよ、作曲理論にせよ、一つ一つの理論には、偉大な音楽家の知と経験が凝縮されている。
そして何より、それらの理論は、一人の音楽家によって構築されたものでは決してなく、これまで存在してきた様々な音楽家たちが共同して産み出した公共財産なのだ。そうした公共知の恩恵を授かりながら、これからの作曲実践に励んでいきたい。2017/9/1(金)
No.143: Knowledge Construction and Writing The second day in my second year at University of Groningen just began.
It is still dark outside. Keeping a morning diary is a lubricant to activate my mind and body for my work.
As I mentioned before about Jean Piaget, writing was a routine practice for him. He could build a massive edifice of his scientific work by his unceasing writing.
The process of knowledge construction is gradual, and that of word construction is also steady.
Since both share a resemblance of gradual construction, writing to construct my thoughts at a slow speed can lubricate the process of my knowledge building. Tuesday, 9/5/2017