一日が終わりに近づき、それと同じように一日の自分の仕事も終わりに近づいている。今日は天気に恵まれ、とても清々しい一日だった。
八月も終わりに近づいているが、結局夏らしい暑さを感じることは全くなかった。本日ランニングの帰りに訪れた行きつけのチーズ屋の店主とも話をしていた通り、もう秋の足音が聞こえる。
先ほど夕食を食べている最中、食卓の窓から外の通りに目をやると、白と黄土色のまだら模様の猫が道端をゆっくり歩いていた。その猫を見たとき、「いつもの猫だ」と思った。
この猫は、おそらくここの住人の誰かが飼っている猫だと思う。いつも同じ場所をうろうろしているこの猫の活動範囲は狭そうだ。
猫と同じく物理的な肉体を持つ私たちも、身体的な活動範囲というのは意外と狭いのではないだろうか。いつも同じ場所で生活をし、いつも同じ職場に向かう。
そのような形で私たちの日々は形成されているのではないかと思う。物理的な肉体が私たちの活動範囲を制限することについて見方を変えてみると、私たちは自由のない檻の中で生活を強いられていると見ることができるかもしれない。
しかし一つ忘れてはならないことがある。それは、私たちの精神的活動範囲を無限に広げることができるということだ。身体的にいくら活動範囲が狭められようとも、私たちは自らの認識という翼を大きく広げ、精神までも狭い檻に入れてはならないように思う。
こうした認識の力は「想像力」と呼んでいいものかもしれない。そして、こうした想像力が多いに膨らみ、豊かになる時、それは「創造力」へと変容していくのではないかと思う。
毎日同じ場所で暮らし、同じ職場に行こうとも、想像力という名の翼を羽ばたかせ、創造的な活動に日々従事していきたいとふと思った。あの一匹の猫から教えられたのはそのようなことであった。 今日は出版記念ゼミナールの第四回目のクラスの説明資料を作り、いくつか仕事上のメールを返信する以外は、全ての時間を作曲の学習と実践に充てていた。チーズ屋の店主が述べた、「あと二週間で新しい学期が始まるわね」という言葉を受けて、残りの夏季休暇を十分に活用する形で、音楽言語の理解力と活用力をできる限り高めたいという思いを新たにした。
北欧旅行から帰ってきて以降、音楽理論や楽典の学習をすることがゲームをすることと同じような感覚になっている。これはある種の中毒状態だと言ってもいいだろう。
すでに論文を書くことや日記を書くことはほぼ中毒状態だと言っても良く、作曲に関してもある種の中毒状態を生み出したいと以前から考えていたが、まさかその前段階の音楽理論や楽典の学習に関してもそうした状態になるとは思ってもいなかった。
これはおそらく、デンマークやノルウェーで訪れた美術館や博物館が刺激になっているのだと考えられる。一つの曲を作ることは、どこか一つのパズルを解くようであり、同時に自分独自のパズルを作り出すような感覚がある。
こうしたゲーム感覚に加え、何より作曲にのめり込ませるのは、やはり自分の思考や感覚が音として奏でられることにあるだろう。自然言語で自らの思考や感覚を表現するのとは、またひと味もふた味も異なった表現物が作曲によって生み出される。
今日の仕事はひと段落したため、就寝までの時間を作曲の学習と実践に充てたいと思う。2017/8/22(火)
No.107: Profound Dimensions of the Inner World Last night, I captured the richness and depth of the inner world.
At the same time, I intuitively understood that there were an infinite number of doors for the richer and deeper dimensions in the inner world. A key to opening each door is a word.
Cultivating our words enables us to enter more profound dimensions of the inner world. Although we often separate words and senses, both of them are intrinsically inseparable.
Unless we overcome the dualism of words or senses, we will not be able to go into profound dimensions of the inner world. Monday, 8/28/2017