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1453. 言葉・感覚・自己


早朝の鬱蒼とした天気が嘘のように、昼食前から清々しい空が広がり始めた。早朝の天気予報では午後から夜にかけて雨が降ることを示していたが、先ほどもう一度予報を確認すると、午後からは完全に晴れるようだ。

空が晴れ渡ったのとは対照的に、依然として一つ謎めいた疑問に捕まっていた。それは先ほどコーヒーを飲んだ時、なぜお茶が「茶」よりもむしろ「お茶」と日本語で発音するのかという問題だ。

コーヒーに関しては、「おコーヒー」という言葉を聞いたことはないし、それは大きな違和感をもたらす。昼食時に晴れ渡った空をぼんやりと眺めがらその問題について考えていると、「お菓子」も接頭辞に「お」が付くため、これは日本の歴史上、菓子や茶を位の高い人物に献上する習慣があり、そのため「お(御)」という接頭語がそれらの言葉についたのではないかとふと思った。

一方、コーヒーは外来のものであり、お茶やお菓子という言葉が生まれた時代よりも随分と後になって日本に入ってきたがゆえに、「お」が付くことはなかったのではないか。そのように考えてみると、視界に広がる空の青さと同様に、その問題に対する気分が随分と明るくなったような気がする。 ちょうど昼食前に晴れたおかげで買い物に出かけることができた。外の空気を吸うのは前回の買い物以来であるから、四日振りである。

スーパーに向けて今日は少し小走りをしたい気持ちだったので、1kmほどの片道を軽くランニングした。その最中に、言葉を大切にすることは感覚を大切にすることに他ならないという気づきが降ってきた。

これは以前にも何度か訪れたことのある気づきなのだが、今日もまたその気づきと出会った。言葉は単なる概念の寄せ集めではなく、それよりもむしろ、感情や感覚、その人の存在自体が内包されたものなのだ。

言葉で語れぬものがあるから感覚に頼ろうとするのは単なる逃避である。結局そうしたものは感覚でも語りきれない。

そもそも言葉と感覚は密接に結びついたものなのであるから、両者を深化させていく道を歩む方が賢明だと私は思う。今この瞬間に言葉で語りえぬものが無数にあったとしても、自らの存在が成熟し、言葉が成熟を遂げると、それが言葉で語り得るものに変容することがあるのだ。

これはほとんどの内的現象に対して当てはまるだろう。また興味深いことに、存在の成熟とともに深まるのは言葉だけではなく、感覚も深まるのだ。

上述のように、言葉と感覚が絶えず分かちがたく結びついているため、存在の深化が両者の深化を促すのである。言葉を大切にしないことは、感覚を大切にしないことを意味し、自己の存在を大切にしないことを意味するように思えて仕方ない。

ということは、現代人のほとんどは感覚を喪失し、自己を喪失していると言えるのではないだろうか。2017/8/20(日)

No.99: Silent Contemplation A piece of music of Jean Sibelius is making gentle and merciful sounds.

I unintentionally stopped my work for a while, just listening to the music. After I came back to myself, I began to reflect upon my life.

This contemplation enabled me to restart my life. The starting point is connected with the previous end point and the final destination, too. Saturday, 8/26/2017

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