ポツリポツリと雨が降り始めた。午前中に小雨が降って以降は、比較的天気が安定していたのだが、夕方からまた天気が崩れ始めた。
毎日思うのだが、天気を観察するのは実に面白い。天気の変化から学ぶことが多々あるからだ。
天気を観察するというのは、特に、天気の変化を捉える自分の内側の世界の変化を理解することに有意義である。ある瞬間における外側の天気をどのように自分が描写するかは、そっくりそのまま自分の内側の状態を表している。
そして最も興味深いのは、これまで幾多の数の描写を天気に対して行ってきたが、完全に同一の記述が一つもないということだ。これは驚異的なことではないだろうか。
この世界には、二度と繰り返されないものが本当に存在しているということを強く実感させられる。逆に言えば、完全に同一のものが繰り返されることなどこの世界にはないのではなかと思わされるほどである。
それほどまでに、内外の世界は変化で満ち溢れている。そうした変化の中に見られる方向性や規則性というものを発見するように努めている。おそらく、これまでの天気に関する自分の描写を全て抽出してみると、何らかの方向性や規則性が隠れていることは明らかだろう。
ただし、今はそれらについて分析することが問題なのではない。とにかく、刻一刻と変化していく外面世界の中にあって絶えず変化していく内側の世界を書き留めていくことが大切だ。
変化という曲線的な流れの中にある一つ一つの点を捉えていくのだ。点を刻んでいくためには、それに注意を向け、それを書き留めていかなければならない。
書斎の窓から真正面に見える空は雨雲で覆われている。しかし、西の空は雲がなく明るい。
たった今、私は一つ大きな発見をした。あまりにも些細なことであり、教養のある人にとってみればあまりにも当たり前かもしれないが、なぜ書斎の窓から見える雲がいつも一定方向に向かって動いているのかがようやくわかったのだ。
これは私に大きな驚きをもたらし、同時に、大きな喜びの感情をもたらした。書斎の机を今の配置にして以降、私は何百日と同じ空を見てきた。
空を眺めるたびに雲があるのであれば、それらをまじまじと見つめてきた。しばらくすると、雲の色や形だけではなく、雲の動く速度に着目するようになった。当然ながら雲が早く動いていく時もあれば、ゆっくりと動いていく時もある。
雲の動きを観察することを積み重ね、今日ようやく、「そういえば、なぜ書斎から見える雲はいつも同じ方向に向かって動いているのか?」という問いが立った。これまでも、おそらく無意識的に気になっていたのだと思うが、それが明示的な問いになったのは今日が初めてであり、言葉の形にしてみて初めて、その問いと真剣に向き合うことができた。
やはり、言葉にしなければダメなのだ。言葉にしなければ、何も見えて来やしないのだ、ということを身をもって教えられた。
書斎の窓から見える雲が、いつも西から東に動いている理由はとても単純なものだった。オランダ上空に偏西風が絶えず吹いているからだった。
そこからさらに、偏西風の発生要因とメカニズムについて関心を持つことは必然だが、今日はそこから先には進まない。偏西風という地球の神秘が、書斎の窓から見える雲の動きを支えているということを知れただけで、幸福感で一杯だった。
今この瞬間に見える灰色の雨雲も、偏西風からの贈り物なのだ。そして偏西風は地球からの贈り物なのだ。そのように考えるだけで、私の心は至福さで満ち溢れていた。 今回の雲の一件で、また色々なことを考えさせられた。「偏西風」という概念を知っており、その知識を常に実用に活用できる状態にある人にとっては、私のように何百日をかけてようやく今日のような発見をすることはなかっただろう。
そうした基礎的な知識を持っている人であれば、私が費やしてきた数百日の間に、オランダの天気に関するより深い理解と知識体系を獲得していたことだろう。もちろん私は気象学の専門家ではないため、今回の発見に数百日の時間がかかったことについて何とも思っておらず、むしろそのような時間がかかっていたことを忘れさせてくれるほどに大きな喜びを今日感じた。
ただし、自分の専門領域に関して言えば、やはり既存の知の体系の中に入り、その体系を自らのこれまでの知識と経験と照らし合わせながら再解釈し、自らの体系を構築していくことが重要だと痛感させられる。つまり、最低限の知識に関しては先人の力を大いに借りるべきであり、そこから自分の知識体系を構築し、自分なりの新たな発見事項をしていくことが重要なのだ。
知性の発達に関して新たな発見事項を見出すためには、もしかすると数年や数十年かかることもあるかと思われるが、それでも既存の知識体系をしっかりと学んでいくという姿勢は絶えず持たなければならないだろう。
目の前の雨雲が教えてくれたのは、私は自分が想定している以上にもっとずっと学ぶ必要があるということだった。この世界は、自分の既存の知識という度量衡で捉えられるよりもずっと複雑で未知なものなのだ。
それを片時も忘れてはならない。2017/8/4(金)
No.37: Nature and The Nature It is almost Oslo. I could notice a subtle difference Swedish and Norwegian landscapes.
As Emerson argued, we can learn from nature something larger than us. Nature reminds us of our true nature.
My curiosity captures the two meanings of the word “nature.” “Nature” represents the vast amount of sources for all existence; “the nature” corresponds to the essential quality of all existence.
Both “nature” and “the nature” integrate into a transcendental aspect of reality. Can we find our true nature, seeing nature?
Can we discover the ultimate unity between nature and our true nature? If not, what are you seeing at this present moment? Thursday, 8/10/2017