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1381. 人生の節目と六年前の論文


人生の節目節目に読み返す本。そんな書籍が誰しも一冊はあるかもしれない。私にとって、そうした一冊の書籍は、今から数年前にお亡くなりになられた松永太郎氏が翻訳した『存在することのシンプルな感覚』である。

この書籍の原著は、米国の思想家ケン・ウィルバーの書籍 “The Simple Feeling of Being: Embracing Your True Nature (2004)”である。私はどちらの書籍も持っているのだが、松永氏の名訳もあってか、こちらの翻訳書を人生の節目節目に読み返すことがある。

昨年は確か、日本を離れる前に最初から最後まで読み返したように記憶している。数日前に、私は何気なく本書を書斎の本棚から取り出した。

もしかすると、今は人生のまた新しい節目の時なのかもしれない。人生の節目が、私の手を本書に伸ばしたのだ。

本書の中にある様々な書き込みを通り過ぎ、書籍の至る所に記されている読んだ日付を通り過ぎ、一つの大きな世界の中に安らいでいくような感覚があった。本書を読めば読むほどに、新たな気づきが得られるのは確かだ。しかし、それは全くもって重要なことではない。

それ以上に重要なのは、何かに気づいている自己そのものに気づくということ。より究極的には、気づくものと気づかれるものが合一する状態が、自らの存在に他ならないということが直接的に体験されることだ。

早朝から大空を覆っていた薄い雲が消え去り、夕方のフローニンゲンの空に晴れ間が見える。昨年の今日、私はあの空のどこかにいたのだろう。

今、私はその空を見ている。しかし、それがどこかおかしな表現であることにはたと気づかされた。

去年の今頃、私はあの空のどこかにいたのではなく、あの空に他ならなかったのだ。また、今、私は空を見ているのではなく、この空が自分であるということにふと気づかされたのだ。

きっとこの感覚は伝わると思う。なぜなら、それは私たちが存在することの本質だからだ。 窓の外をぼんやりと眺める私と眺められる外側の景色が完全に合一する中で、六年前のとても具体的な記憶について思い出した。そういえば、私は日本語で出版物を世に送り出す前に、英語で出版物を世に送り出していた。

今から六年前、初めて米国に渡って生活を始めた時、大学院の最初の学期に執筆した論文をあるジャーナルに送った。そのジャーナルはまだできて間もなかったためもあるだろう、多くの修正を要求されたが、無事にそのジャーナルに論文が採択され、それは一冊の書籍の中の一章となった。

その論文は、日米の企業社会の文化と制度をインテグラル理論の枠組みを用いて比較したものであり、今の探究関心と随分異なる。また、お世辞にもその論文の質は高いものだとは言えず、よく書籍に掲載してもらえたなと今になっても思う。

現在の関心テーマとかけ離れており、さらにはその質についても納得していないため、自分のCVの出版履歴にその論文について記載をしていない。当時の自分はあまりに若く、論文を執筆するということの意味も意義もわかっておらず、また学術の世界に留まることを考えていなかったこともあり、少しばかり浅薄な形で論文を提出することになったのだと思う。

書籍と同様に、論文も自分が生みの親であるという明確な意思を持ち、責任を持ってこの世に送り出していかなければならない。子を産み、子を育てるのと全く同じ責任感を持って、これからの一つ一つの仕事を進めたいと思う。

そのような思いにさせてくれたのが、六年前に執筆したあの論文だった。2017/8/1(火)

No.26: Surrealistic Writing

Surrealistic writing is my unconscious daily practice. Instead of painting, writing can be a modality to represent surrealistic phenomena within us.

Capturing and describing subjective transcendental phenomena are the door to the absolute reality. Monday, 8/7/2017

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