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1367. 新たな風


六時に起床。寝室の窓から外を眺めると、遠方の空に真っ赤に燃える朝日が顔を出していた。しばらくその朝日を拝み、私は書斎に向かった。

昨日に引き続き、今日も活力が湧いている。昨日よりも静かな流れなのだが、それは確かに「活力」と表現していいものに違いはない。

芯から湧き上がるような静かなうねり。今日の活力はそのような印象を放っている。

一昨夜に引き続き、昨夜も夢の中で重要な気づきを得た。今朝未明、その重大な気づきによって目を覚まし、いつものことながらそれを書き留めておこうとする強い衝動が自分を襲った。

得られた気づきが極めて重要なものであったがゆえに、纏まった文章を書き留めておくことができそうであった。しかしまたしても、その場で文章を書き留めることをしなかったがために、その重大な気づきは再び無意識の世界に折りたたまれていった。

顕在意識の世界の中で、再びそれを開いていく試みに従事しなければならない。そんなことを今思う。その気づきは、無意識の世界の中に消え去っていったわけではなく、その世界のどこかに影を潜めているのだ。

認識の光が当てられることを待っていると言ってもいいだろう。それを行うのは、顕在意識下における私だ。そのような役割を与えられているがゆえに、それを全うする責務がある。 起床直後に簡単に身体を目覚めさせる習慣的実践を行い、書斎の机に着くや否や、グレン・グールドの演奏するバッハをかける。ゴルトベルク変奏曲アリアが静かに流れ始める。

この曲には何かがあるに違いない。毎回この曲を聴くたびに、そのようなことを思わされる。

自分を惹きつけてやまない何かがあることは確かであり、その奥にまた何か重要なものが秘められているような気がしてならないのだ。そうでなければ、これほどまでにこの曲を繰り返し聴くはずはないだろう。

心が落ち着くというよりも、魂が落ち着くという感覚。この曲は魂を安らかにしてくれる感覚をもたらすが、それは鎮魂歌という意味ではなく、自らの魂にもう一度自己を立ち返らせるような内省的な感覚である。

深く深く自己に立ち返ることを余儀なくさせるような音の泉がそこにあるのだ。バッハの最後の曲が終わったら、グールドが演奏するモーツァルトのピアノソナタを聴こうと思う。

グールドはあれほどまでにモーツァルトを嫌悪していたのに、ピアノソナタ全曲を録音していることが面白い。四時間ほどのピアノソナタ全集を聴いたら、再度繰り返しそれを聴くか、再びバッハに戻ることになるだろう。そのような予感がする。 昨夜に書き留めていた最後の日記を思い返していた。一見すると、それは随分と否定的な内容に思えるかもしれない。

仮にそうであったとしても、いや、そうだからこそ、それは非常に重要な意味を持っている。ギリギリのところに忍耐強く立ち、規律と克己を持ちながら生きようとする意志。昨夜待っていた新たな風が自分の中に吹き込んでくるのを感じる。

書斎の窓から外を眺めると、道路が濡れている。どうやら昨夜は雨が降っていたようだ。幸いにも今は雨が止んでいる。

新しい風が早朝のフローニンゲンの街を静かに流れている。そしてそれは、自分の内側にも確かに流れている。2017/7/30(日)

No.12: Beyond Dichotomy Do I have experience? Have I ever had any experience?

I think that I do and I have had, but that is not true. It misses a point.

If I suppose that I have experience, the underlying assumption is that there is a particular experiencer (subject) and experienced (object). Here, I can find a dichotomy between subject and object.

To see the dichotomy at a metaphysical level, the experiencer and experienced are the same. I do not have any experience, but I am any experience. Saturday, 8/5/2017

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

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