うっすらとした柔らかい雲とそこから透けて見える青空。今日は晴れのようだ。
起床直後、身体の調子が良いことに気づく。肉体的な身体の各器官の機能がしっかりしているというだけではなく、身体全体を駆け巡るエネルギーの調子がいいのだ。
昨夜は、一日を締めくくる前に、今日という明日に向かって畳み掛けるように文章を書いていたように思う。それがあっての今日。
昨日の様々な気づきを引き継いで、初めて今日という一日を歩いていけるという実感。昨日に気づきがあったという実感があり、今日もまた新たな気づきがあるだろという実感がある。
気づきがあったという過去と気づきがあるだろうという未来と、両者を絶えず実感する現在の中で生きること。そのような日々に対して、これ以上望むことのできない充実感とたまらない幸福感を覚える。
そして、この充実感と幸福感はとても質素な感情であることに気づく。それらはとても慎ましいのだ。あまりにも密度が濃いがゆえに、それらの充満する感情の中で、私は静かにならざるをえない。
この充実感と幸福感の表面は爆発的な感情エネルギーで覆われているが、その核にあるものは静寂である。その静寂さが大変慎ましいもののように感じるのだ。
小鳥たちがいつもより勢いのある鳴き声を奏でている。ずっと聞いていたくなる、そんなさえずりだ。
書斎を流れるバッハの音楽よりも美しい音色を奏でていたので、居てもたっても居られなくなり、小鳥の鳴き声が聞こえる寝室の窓に向かった。フローニンゲンの清澄な朝の世界を、小鳥の鳴き声が包む。
決して逆ではない。この街の中に小鳥の鳴き声があるのではなく、小鳥の鳴き声の中にこの街がある。私は、この街に響き渡る美しい音色にただただ聞き入っていた。 今日は早朝に、毎朝の習慣である、カントの “Critique of Pure Reason”を音読する。その後、ダイナミックシステム理論の方法論的な論文を四本ほど読む。
夏季休暇も一ヶ月が過ぎたところで、改めて書斎の机の上を眺めてみると、論文の山の一つが消えた。それらの四本の論文を読み終えることをもってして、机の一角を占めていた論文の小高い山が消えることになる。
論文の山が消えるごとに、私の内側には一つの山が出来上がっていく。そんな感覚がある。
それらの論文を読み終えたら、サイバネティクスの創始者であるノーバート・ウィーナーの “The Human Use of Human Beings (1950)”に取り掛かる。本書は200ページ弱なので、本日中に読み終えることができるのではないかと思う。
とても心の踊る一日の始まりに、感謝の念しかない。2017/7/25(火)