ポツポツと断続的な雨が降る一日が、静かに終わりに向かっている。今日は午前中に突発的な睡魔に襲われたが、仮眠を取って以降は随分と精神が研ぎ澄まされていたように思う。
精神の研ぎ澄まされている微妙な度合いの差が、もはや手に取るようにわかるようになってきている。精密さを追いかけた末に辿り着く、精密な差の把握。精密な差の把握が可能になることによって生まれる全体把握。精密な部分の集合とその集合の総和を凌ぐ全体の完全理解。
自らの内側の世界を量子論的世界の厳密さを持って把握し、そうした究極的なミクロの世界とは対極にある究極的なマクロの世界から自らの内側の世界を全体として一挙に把握したい。微視的な眼と巨視的な眼を涵養し、それを内面世界の距離的把握のためだけに用いるのではなく、時間的把握のためにも用いることができるようにしたい。 夕方、イタリアに呼ばれた。イタリアという国からの手まねきに遭遇し、それが意味するものは何かについて考えようとしていた。
昨年の夏、日本を離れる前日の夜に宿泊していた成田のホテルで、私はノルウェーに呼ばれた。だから今年の夏はそこに行く。
数ヶ月前、エジプトとギリシャ、そしてトルコ西部の古代都市エフェソスに呼ばれた。だから近々私はそこに行くことになるだろう。
今日の夕方はイタリアだった。雷雨が降り始めた時、その突発的な出来事の要因や理由など説明できないのと同じように、イタリアに呼ばれたその現象を説明することなどできない。
以前、母からバチカン市国の魅力について聞く。来年のどこかで、フィレンツェ、ミラン、ローマへと旅をしたい。
頭の中でヨーロッパの地図を広げてみる。フローニンゲンから始まり、ブリュッセル、チューリッヒ、ミラン、フィレンツェ、ローマへと南下していく旅。
各都市に何泊かし、ゆっくりとヨーロッパを南に下っていく旅の情景が、眼前に見える赤レンガの家々よりも鮮明に見えた。個別具体的な観光名所から逆算的に生み出される偽りの旅ではなく、直感的な全体把握から、ある国や都市が自然と浮き上がる真の旅であるがゆえに、この旅の道を歩いてみたいと思った。
私は本当に、来年のどこかでこの欧州南下の旅に出かけるかもしれない。 朝一番の自分の考えを一日の最後にもう一度考え直させられていた。絶え間ない健全な自己批判と自己修正。
地に向かう精神自殺ではなく、天に向かう精神自殺を絶えず繰り返していかなければならない、という昨夜の就寝前の考えについても、どうしてもさらに一歩深く、かつより正確に書き留めておきたいのだが、今はそれをしない。
明日以降にそれを行いということをここに明記しておく。今日の朝一番に私は、論文とは徹底的なまでに自己の喜びを満たすことから出発しなければならない、ということを書いていたように思う。出発地点と立脚地点が自己にあるのはいい。
だが、喜びを満たすのみならず、論文は自己を幸福さで満たすためのものでなければならないということも付け加えておきたい。そして、論文は自己の幸福に資するためにあるのであれば、やはりそれはひるがえって人類の幸福に資するものでなければならない、という考えを持った。
「論文は人類への手紙である」と述べたウンベルト・エーコ。手紙をしたためる自分自身が幸福感に包まれ、幸福感の中に溶け出していくことが起点となる。
その起点から、人類へ向けて手紙を差し出すことによって、人類の幸福に資するようにしなければならない。自己の幸福と人類の幸福に向けて論文を書き続けることができるのであれば、全てのものを喜んで差し出す。
今朝一番の「自己の喜びを満たす」というのは、もしかすると、自己の全てを喜んで差し出すことを示唆していたのではないだろうか。そして、天に向かう絶え間ない精神自殺を自己に課す、という昨夜の考えも、自己の幸福と人類の幸福に資するために論文を執筆し続けることに直結していることがわかる。
論文の存在意義、そして論文を書くことの理由の大きな端緒が光のように注いできた。これから光のない、夢を見ない深い夢の世界の中に行く。
明日の起床直後から、蜘蛛の糸と全く同様の細く繊細な、今日の夜に触れた一筋の光を太く太く育てていきたい。内側の世界に光を見出そうとすることは、もはや止めなければならない。
そうではなく、一つ一つの光を自分自身で生み出し、太い光の束を幾重にも折り重ね、内側の世界を光で満たしたい。それこそが、天に向かう精神自殺の究極地点であり、自己の幸福と人類の幸福に向けて論文を書き続けることの絶対的な拠り所となる。2017/7/24(月)