怒涛の流れ。昨日と今日は、自分の内側におびただしい量の洪水が途轍もない勢いで流れ込んでくるかのようであった。
それをもたらした要因の一つは、ゼミナールを通じて多くの方と触れ合ったことにあるかもしれない。夕方、窓の外から景色を眺めると、白い雲と薄黒い雲が混じり合うような空模様が広がっていた。
そして、今も私はその空を眺めている。窓から見える景色の中を、一羽のカラスが左から右へと横切り、すぐさま、一羽のハトが右から左へと横切っていく。左右白黒。 午後からの仕事を終え、私は少しばかり休憩を取ることにし、休憩の友として、辻邦生先生の『モンマルトル日記』を読んでいた。これは、辻先生が二回目となるフランス滞在時代の日々が綴られた日記である。
1968年から1969年の一年間の日々が綴られている。辻先生の文章を読むと、時折、生の歓喜や情熱などが自然と自分の内側から滲み出てくることがある。今日もそうだった。
辻先生が若い頃、ドイツの文豪トーマス・マンの作品を熱心に読んでおり、中でもマンの私生活に触れられた日記を読むことに心をときめかせていたことがあった、という記述を見つけた。マンの日記から多大な影響を受け、日々の探究生活について執筆している辻先生の日記に対して、今この瞬間の私が心を打たれているというこの事実に、私はただただ感動していた。
私は決して一人で生きているわけでも、一人で探究を進めているわけでも決してないのだという当たり前の事実。これをもう一度眼前に突きつけられたような思いになり、同時にそのことが私をひどく感動させた。
徹底的に独りであり、完全なまでに独りではないということが、どれほど励ましを自分にもたらしてくれたかわからない。あともう少しで何かが見えてきそうな気がしている。
あともう少しで、徹底的な個に辿り着き、そこから全への解放が実現されるような気がしているのだ。この「もう少し」があとどれほどの時間と距離を持つものなのか、それはわからない。
だがもうその尻尾が見えているのは疑いようのない事実である。そこに辿り着いた時、ようやく全てが始まる。逆に、そこに辿り着かないうちは、何も始まらない。 読んで書き、書いて読み、読むことと書くことの間にその他の出来事がそっと挿入されるような生活。そうした生活は、今朝の早朝の静寂さよりも静かであり、今突然鳴り響いた雷のけたたましい音よりも激しい。 私はやはり、自分の主題というものをまだ明確にできていない気がする。徐々に主題の要素が見え始めているのだが、その部分が全体となった主題そのものがまだ掴めないでいる。それを掴まなければならない。
欧州で送る日々は、主題の明確化にあり、それを鷲掴みにするためにあるのだという確信を得ている。今はこの確信を頼りに、日々を可能な限り深く生きることが自分にできる唯一のことである。2017/7/23(日)