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1337. メタ理論や日本的発達理論に関する雑感


午前中、発達心理学の開拓に多大な貢献を果たしたジェームズ・マーク・ボールドウィンと記号論を提唱したチャールズ・サンダース・パースの思想に関する論文を読んでいた。両者の思想から得るものはいつも多く、二人が書き残した全集は私にとって非常に貴重な文献である。

二人の巨人は、ともに多様な学術領域を横断し、晩年においてそれらの領域を統合するようなメタ理論を提唱することに尽力していた点が共通している。とりわけ、ボールドウィンの晩年は、キャリアの前半期で残したような発達段階モデルを超えて、人文科学と生物学などを架橋するメタ理論を提唱し、包括的な発達理論を提唱している。

彼らの仕事を見ていて重要だと感じたのは、メタ理論の提唱が単なる複数の領域間の架橋に終わらない、ということである。つまり、彼らが提唱したメタ理論は、単純に複数の学術領域をつなぎ合わせるだけではなく、それぞれの領域固有の限界や盲点を指摘しながら、個別個別の領域のさらなる発展に寄与していくという特徴を有している。

要するに、それらのメタ理論には、ある種、個別領域の進展を促す作用と規制的機能を持ち合わせているのである。中でも、この規制的機能というのがカギを握るように思えて仕方ない。

カート・フィッシャーの理論でも指摘されていることだが、複数の知識領域に習熟し始めると、それらを一つの統一的なシステムに束ねようとする衝動のようなものが芽生える。その衝動に従いながらさらに実践や鍛錬を深めていくことによって初めて、「メタシステム段階」が立ち現れる。

レクティカでの経験やこれまでの発達測定の経験上、メタシステム段階に到達している人の言語には、堅牢性から生まれる力強さのようなものがみなぎっていることに気づく。そして、この言語の力強さというものが、実は規制的機能の表れの一つであることに気づく。

要するに、メタシステム段階の言語特性は、複数の領域を単純に束ねるような主張をするのではなく、束ねた統一的な理論を用いて、一つの力強い主張を生み出し、それは主張の要素となっているもともとの複数領域が内在的に持ち合わせている限界や盲点に批判を加えるような内容を伴っているものなのだ。

先ほどの論文を読みながら、そのようなことをふと思った。論文を読み終えた後、出版記念ゼミナールの第二回のクラスを行った。

昨日のクラスに引き続き、今日のクラスも私自身が多いに学ばされることが多かった。備忘録として箇条書きにしておくが、例えば、能力の成長を生態系のメタファーを用いて捉えるだけではなく、エネルギーの観点から考えるという点はとても面白い。

能力の成長において、「バランス」という名の「平均化」や「均質化」を実現させようとするのではなく、エネルギーを分散させるのでもなく、局所的なエネルギー投入というものがやはり必要になる時があるのだ。

クラスの中では、多様性の確保された生物種が生息する生態系のメタファーを用いたが、今後はエネルギーの観点からも説明を試みたいと思う。というのも、ダイナミックシステム理論を学ぶ過程で、必然的に情報理論に触れることになり、その中で情報をエネルギーのように捉える考え方にしばしば接してきたからである。

とりわけ、「エントロピー」や「ネゲントロピー」という概念は、情報エネルギーの状態を表す際に重要なものであり、発達現象の研究にそれらの概念が活用されていることもよく見かける。そうしたこともあり、エネルギーの視点というのは今後も温めていきたいものだ。

また、日本の伝統芸能における「守破離」という考え方は、キーガンの発達段階モデルで言えば、段階3から段階5の移行過程と似ているものがあり、守破離はもともとは能力の成長について適用されるものだったが、それは器の成熟の説明にも活用することができるのではないか、という面白い話題もあった。

確かに、現在の私は西洋のアカデミアが産み出した発達理論を主に学んでいるが、実際には東洋、そして日本においても優れた発達理論というものが歴史的に存在しているのである。仏教の意識の発達モデルにせよ、例を挙げればきりがない。

今後、私は少しずつ東洋的な、あるいは日本的な文化に根ざしている発達理論に関する探究も行っていくことになるだろう。2017/7/23(日)

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