昼食前のランニングに向けて、午前中の時間は全て、ザカリー・スタインの論文を読むことに充てていた。昨日、自らがプラグマティストの側面を持っていることに気づかされたのも、ザックの論文による影響が大きい。
ザックと私は同年代に属しており、彼のほうが五歳ほど年上だ。ザックが今の私の年齢の時、すでに彼は数多くの論文をこの世に送り出していた。そうしたことを考えると、今の私はやはり何も仕事をしていないのだということを知る。
昨日得られたプラグマティストの自覚について、少しばかり抜け漏れている点があったため、もう少し書き留めておく必要がある。私がプラグマティストの側面を持っていることに気づかされたのは、プラグマティズムの伝統を築き上げてきた先人たちの仕事に大きな共感を抱いていたことに端を発している。
ウィリアム・ジェイムズを始め、チャールズ・パースにせよ、ジョン・デューイにせよ、彼らは心理学的な探究に従事していながらも、単に科学的な事実をこの世界に提示するだけでは良しとしなかった。その事実をいかにこの世界で活用していくのかの哲学的な考察を経て、実践的な指示も与えていたのである。
このあり方に私は大変共感する。この世界の現象を科学的に記述するだけは不満足なのだ。
世界を記述することと世界の中で実践をすることが共存在し、記述と実践が常にお互いに影響を与えながら絶えず高まっていく試みに従事しなければならない。その先に、個人や社会の豊かさが実現されていくと信じている。
その実現に向けて、私は科学的な探究と哲学的な探究に絶えず従事しながら、この世界に関与するという実践に励み続けたい。 グレン・グールドが演奏するバッハのピアノ曲が小刻みに流れていく。今朝から八時間半に及ぶバッハのピアノ曲全集を聴き始めた。
ちょうど昨日、ベートーヴェン全集を聴き終えた時、無性にバッハの音楽に触れたくなった。この軽快なリズムは何と形容したらいいのだろうか。
書斎の窓から見える木々が風に揺られるよりも圧倒的に小刻みであり、軽快だ。この小刻みかつ軽快な音の流れに身を委ねれていると、知らず知らず自分が遥か彼方の世界に導かれていくことに気づく。
突発的に、来年の夏ではなく、来年の春にエジプトとギリシャを訪問する思いを新たにした。その思いをもってして、来年の四月に両国に訪れる予定を仮押さえした。 古代エジプトと古代ギリシャの文明に思いを馳せる時、両者の文明がこの現代社会に形として残っていることに改めて感銘を受けた。希薄化してしまったもの、形骸化してしまったものもあるだろう。
だが、それでも両者の文明は脈々とこの現代社会に息づいていることに畏怖の念を持つ。ふと私は、教育の目的は多々あるが、デューイが掲げた教育の目的の一つとして、文化的な価値と技術の伝承を挙げている点に強い共感の念を持った。
私たちは自国の文化に根ざす価値や技術が何であるかを見極め、それらを伝承するような意思と実践方法を持っているだろうか。そして、私たちの自国の教育は、それらを実現するにふさわしいものだと胸を張って言えるだろうか。
これらの問いについては、私たち一人一人が立ち止まって考えなければならないだろう。2017/7/21(金)