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1326. 現在と未来の誰かに向けた手紙の中で


今朝は六時前に起床し、六時過ぎから早朝の仕事に取り掛かり始めた。うっすらとした青空の中にちぎれ雲がぽつぽつと浮かんでいる。

早朝の穏やかな太陽光が赤レンガの家々の窓に照らされ、優しく反射している。一羽ののカモメが家々の屋根の上を優雅に旋回している。清澄な朝に今日一日の活動の誓いを立てる。 昨夜は少しばかり印象的な夢を見た。夢の中で私は、旧友たちとサッカーに興じていた。

最初私はサイズの合わないスパイクを履いており、自分の動きに大きな違和感を感じていた。しかし時間の経過に応じて、私の足がスパイクに順応し、途中からは自分の足に完全にフィットしているような感覚があった。

身の丈に合わぬ状況に置かれ、徐々に丈が合ってくることを暗示するような夢。現在の自己を超えた環境に投げ込まれることによって、徐々に環境に適応し、環境によって自己が育まれることを暗示するような夢。

また、環境から自己への働きかけのみならず、自己が環境に適応しようとする能動的な働きを示すような夢だった。この夢の場面が終わる時、私は別の夢へと誘われ、その後は断片的な夢の流れに組み込まれていった。

時間の流れと手をつないでいるかのような夢の流れ。それは連続的な流れでありながらも非連続的な流れでもある。

時間の流れない夢の世界や時間が過去未来と前後するような夢の世界。ある場面の中での時間は連続的に緩やかに流れるが、場面の変化は非連続的な時間の流れを暗示する。夢と時間の関係はとても不思議だ。 昨夜の就寝前に、自分の今後の生き方と取り組みについて考えを巡らせていた。突発的に浮かび上がってきたのは、「学術論文は人類への手紙である」というウンベルト・エーコの言葉だった。

その言葉を思い出す時、私は真摯に人類への手紙を書きたいと思った。しかもそれは、誰も想像のできないほどのおびただしいほどの量で。

現在を生きる人類と未来を生きる人類に手紙を書き続けたいのだ。それが自分の最も望むことであることにはたと気づかされる。

現在と未来を生きる人類に向けて、誰も信じられないほどの量の手紙を書こうとする自らの意志の根源は何なのか。私はなぜ全てを飲み込んでしまうほどの量の手紙を書こうとするのだろうか。

それについて考えていた。「なぜ」という質問はいつも私の期待を裏切る。大抵、それに対する明確な理由など生まれて来ない。生まれ出てくるのは取り繕った理由ばかりである。

私にはもっと根源的な理由があることを知っている。自己の根源を通じて絶えず手紙を書くのである。 私がこれからの数年間をとりわけ準備の期間としているのは、爆発的な量の手紙を書くために他ならない。今の自分の知識と経験ではそれを成しえないことを痛感している。

ベッドで仰向けになりながら、私は計算をしていた。「一万時間の法則」を、通説で言われている10年間の歳月をかけて通過するのではなく、三年以内に通過しようという強い思いが湧き上がっていた。

少なく見積もって毎日自らの探究に10時間の時間を充てるならば、二年と九ヶ月弱で一万時間に到達する。そうであれば、これからの10年間において、「一万時間の法則」を少なくとも三回ほど通過していくことができるということに大きな感激を覚えた。

その感激は自然と目頭を熱くさせた。これからの10年間の中で「一万時間の法則」を最低でも三回ほどくぐり抜け、八年後を迎える頃には、月に二通のペースで手紙を書きたい。

理想で言えば、科学的な手紙と哲学的な手紙をそれぞれ一通ずつ書くことができれば理想だ。それが探究者としての自分の精神に調和をもたらし、止むことのない爆発を継続させることができる。

毎週一通の手紙を書くことができればそれは最善だが、そこまで欲張る必要は今のところないだろう。書き続ける手紙がこの世界の誰か一人に届けばそれでいいという思い。

しかも手紙の受取人は、現在の誰かである必要もなく、50年後や100年後の誰かであっていいのだ。そうした考えが、自分の内側の消えることのない炎の上に、さらに大きな炎を乗せていく。

現在の誰か一人、未来の誰か一人に必ず届く手紙を書き続けていくこと。手紙を書き続ける人生であって、書きかけの手紙の中で幕を閉じる人生。

このような人生があってもいいのだということを自ら示しながら生きること。このような人間がこの世界にいたのだということを自ら示しながら生きること。

私にできるのはそれしかない。2017/7/21(金)

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