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1322. 探究魂との一体化


夢を見ない静かな日が続く。自分の無意識が眠っているかのような日がここ数日続いている。

もちろんこの数日間、全く夢を見ていないわけではなかった。事実、昨夜は少しばかり夢を見ていた自覚があり、夢の内容が断片的な記憶として残っている。

だが、それらは大きなまとまりを持たない。つまり、それらは意味を汲み取るのが難しいほどに小さな単位として独立的に生み出され、また独立的に記憶に留まり続けている。

起床直後の世界は、夢を見ない穏やかな無意識を象徴するかのように静かだ。少しばかり鬱蒼とした薄暗さを醸し出す外側の世界を眺めながら、私は今日という一日をスタートさせた。

早朝六時前に今日の仕事を開始し、まずは日記を書き留める。一切の風が吹かない静止した世界の中で、小鳥の声だけがこだましている。

視覚的世界は一切動かず、聴覚的世界だけが躍動しているような感覚。視覚的な静と聴覚的な動のコントラスト。これが逆だったら、それはそれで一興だ。 夏季休暇も一ヶ月が過ぎ、ちょうど折り返し地点に到達した。思えばこの一ヶ月間は、随分と多くの専門書と論文を読んできたように思う。

まさに私が計画し、望んでいたようにこの休暇を過ごすことができている。仕事の合間合間に休暇があるのではなく、仕事が休暇となり、休暇が仕事となる生活。

すなわち、仕事と休暇が分離したものではなく、完全に一つの統一体としてそれが一日を成す生活を送ることができている。そうした生活に私はこれ以上ない至福さを感じている。

こうした至福さをもたらすきっかけになったのは、やはり欧州で生活を始めたことと大きな関係があると言わざるをえない。欧州での生活を始めて以降、探究時間が純粋に伸びた。

一日における探究時間の限界値が、日本にいた時のものよりも確実に伸びている。その要因の一つは、欧州の地で自らの探究の意味の粒子を掴んだことが挙げられるだろう。

また、探究を進めるための肉体と精神を鍛練し直したことも大きな要因として挙げられる。意味と肉体と精神が大きな連関の鎖で繋がれる時、それら三つを繋ぐ鎖さえも消滅する形で、自己が「探究魂」と一体となった感覚がある。

自己とはそもそも探究を宿命づけられいて、探究を通じてこの世界に関与する存在なのではないかと最近よく思う。探究魂との合一により、起床から就寝に向かう全ての瞬間が探究となり、仕事となり、休息となる。

そしてそれは、眠りの意識の中でも続いているにちがいない。意識と無意識の中に探究があるのではない。探究の中に意識と無意識があり、全てがある。そのような形で生きる時、それは幸福な生活であると私は形容する。 六時を過ぎてもいつものように辺りが明るくならない。この鬱蒼とした薄暗さはどうやら薄い雨雲のせいのようだ。

突然、雷が鳴り始め、雨がポツポツと降り始めた。私がこの雨を眺めているのではなく、探究魂の中にこの雨がある。そのようなことを思いながら、午前中の仕事に取り掛かることとする。2017/7/20(木)

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