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1310.「かくあらねばならぬか?」「かくあらねばならぬ」


夏季休暇に入ってからもう少しで一ヶ月が経とうとしている。この一ヶ月を振り返ってみると、その歩みは順調だ。

どのような意味で順調かというと、自分のなすべきことが遅々として進んでいないが着実だという意味である。時が流れるのを早く感じることも遅く感じることもないように、時の流れにピタリと身を寄せることによって全てが進行しているかのようだ。

止まった時の流れの中で日々の仕事に取り組めているということ。これが順調さの証である。

七月も第三週に入ろうというのに、まだ気温が低い。特に朝と夜は、自宅の中で半袖になっていることはできない。

早朝の仕事を支えてくれるものとして、朝に入れる温かいコーヒーの存在がある。今も足元に寒さを感じながらも、コーヒーの香ばしい香りが立ち込める書斎の中で仕事に取り組んでいると、静かな充実感を覚える。 先ほど、過去のある日記を読み返していた。そこにはカントの定言命法に関する話題が書き留められていた。先日、カントが当時の時代と向き合い、時代の精神の負の側面と闘いながら自らの思想体系を構築していったことに改めて感銘を受ける瞬間があった。

その時の自分のメモ書きをみると、現代社会が突きつけている課題と対峙し、現代の精神が持つ負の側面と真っ向から対決する中で、自らの体系を構築していこうという気持ちが改めて湧き上がっていたようだった。

また、その時のメモを見ると、発達現象を複雑性科学の観点から探究することを継続させていきながらも、それが外側からの客観的な現象把握に留まらないようにすることが大事である、ということも書き留められていた。

つまり、その時の私は、発達現象を複雑性科学を含めた、外側からの客観的な方法を用いて探究をしていくだけではなく、自らの内側から発達現象を捉えていくという、主観的方法を用いても探究を行っていく必要がある、ということを強く自覚していたのだった。それはおそらく数日前の日記で書き留めていた、科学・哲学・霊学の話につながる。 これらはすべて、カントの定言命法に関する以前の日記から思い出されたことである。そこからさらに付随して、私は、ベートーヴェンが死の数ヶ月前に完成させた弦楽四重奏曲第16番を思い出した。

この作品の第四楽章に、「かくあらねばならぬか?」というグラーヴェと「かくあらねばならぬ」というアレグロの応答がある。これなのだ。

この世界には、かくあらねばならぬものが紛れもなく存在するのだ。それを相対主義的な見方で希薄化することを私は断じて許さない。

「かくあらねばならぬか?」という疑問すらも持ってはらないものがこの世界には存在しているのだ。かくあらねばならぬものは、かくあらねばならぬのだ。

今から四ヶ月前、私はザルツブルグのザルツァハ川にほど近いホテルに滞在していた。ザルツブルグを出発する日の朝、私は駅に向かう道中、ある信号機に捕まり、横断歩道の前で立ち止まった。

信号機が青に変わり、足を一歩前に進めた瞬間、「かくあらねばならぬ」ものがこの世界に間違いなく存在していることを強烈に知った。それは何かが一瞬にしてはち切れ、何かが一瞬にして結びつくような感覚であった。

それ以降、私の内側は、この世界に存在する「かくあらねばならぬ」ものを死守していこうという気概で満ち溢れるようになった。それは、今この瞬間に自分の目に飛び込んでくる自然の充満さよりも満ち溢れており、目には見えない空気よりも満ち溢れている。

だからそれは、「かくあらねばならぬ」ものだと言えるのだ。2017/7/16(日)

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