天気予報通り、午後から雨が降り始めた。強い雨滴が窓ガラスを打ち、自転車を漕いでいでいる人たちが、急いでそれぞれの目的地に向かっている様子が見えた。
激しい雨が去り、夕方から再び晴れ間が広がった。夕食の一時間半前にナッツ類を摂取しようと思い、食卓の椅子に腰掛けた。すると、食卓の窓ガラスに一匹の羽アリが付いているのが見えた。
さて、この羽アリは内側の窓ガラスに付いているのだろうか、それとも外側の窓ガラスに付いているのだろうか、という素朴な問いを自らに投げかけた。いつも私は部屋に虫がいるのを確認すると、できるだけ殺生することなく、部屋の外に逃がすことにしている。
もし仮に、目の前の一匹の羽アリが部屋の内側にいるのであれば、それを外に逃がす手間がかかるため、期待としては外側の窓ガラスに付着していてほしいという思いがあった。すると突然、その羽アリは私の思いを汲み取ったのか、どこかに飛び立っていった。
先ほどの問いに対する答えは、「外側の窓ガラス」だった。そう思った瞬間、その回答が少しばかりおかしなことに気づいた。
食卓から見ればそれは外側だが、外側の世界にいる人から見ればそれは内側だと思ったのだ。つまり、どの視点を取るかによって、内と外は変化しうるということに気づいたのである。
内の論理は外側から絶えず検証されなければ盲点を拡大させ、外の論理は絶えず内側から検証されなければ本質が見えてこない。また、自己の発達段階に関しても、それを内側と外側から捉えるということをしなければ発達など起こりようがない。そのようなことをあの羽アリは私に教えてくれた。 夕食後、再び小雨が降り始めた。自己の固有性を見出すことが、自己に回帰する点について思いを馳せていると、発達に伴う時間の矢について少しばかり考え直さなければならないと思った。ダイナミックシステム理論の観点からすると、過去のある時点における振る舞いが、時間軸上の次の時点における振る舞いを決定するため、自己の固有性を見出すことは、自己を前に進めていくことを表すだろう。
しかし、そのように考えると、自己が自己に回帰するという運動が掴みにくくなってしまう。それを考慮すると、時間の矢を逆向きにさせ、未来の自己が現在の自己を規定しているという考え方を採用する必要があるように思った。
つまり、時間因果を逆にさせ、現在の自己が立ち現れているのは、未来の自己からの働きかけによるという発想である。過去の自己が現在の自己を決定づけるという時間の矢と、未来の自己が現在の自己を決定づけるという時間の矢を同時に放つと、両者が現在でぶつかり合い、時間が静止するような感覚があった。
いや、時間が消失し、消失した時間の中に現在の自己がいるという感覚があった。この感覚を得たとき、自己はやはり時間を超越した存在なのかもしれないと思わされた。 再び雨が止んだ。時間が止んだのと同じぐらい、雨は静かに止んだ。だが、自己は止むこともなく、激しく動き続けていることを知った。過去から未来でもなく、未来から過去でもなく、この瞬間の現在の中で。2017/7/14