早朝より論文を執筆し、少しばかり休憩を取ることにした。今、欧州の地で私が精神生活の均衡を保てているのは、やはり精神の糧となる和書の存在が大きいだろう。
一時間ほどの休憩を取り、その間、私は辻邦生先生のエッセー集『北の森から』の続きを読んでいた。本書に散りばめられた辻先生自身の体験や考えなどが、自分に強く共鳴していることに気づいた。
下線を引き、書き込みをした箇所は多数に及び、それらの一つ一つが私にとって重要な意味を持っていることは確かであるが、ここでそれらを一つ一つ取り上げることはしない。それらの総体が自分の内側を駆け巡り、その感覚が自分の精神の支えや糧になっていることがわかる。その事実が何よりも重要であった。
日々の生活の中で、私は必然的に様々な言語体系に触れている。自然言語に関して言えば、英語、オランダ語、日本語であり、自然言語以外であれば、数学言語、プログラミング言語、音楽言語などである。
そして、自然言語をさらに細分化してみると、科学言語と哲学言語が私の言語世界の中心を占めていることがわかる。だが、時に私は、無性に詩的言語や霊的言語に触れたくなることがある。
それらに触れなければ、まるで自らの精神が溶解するかのようである。この現代社会において、詩的言語や霊的言語がないがしろにされている実情はとても嘆かわしい。
同時に、本物の詩的言語や霊的言語がいかに少ないかについても嘆かざるをえない。偽物の詩的言語や霊的言語が溢れている状況は、それらの言語体系の存在価値を棄損し、それらの言語体系が持つ真の意味を骨抜きにしてしまっている事態を招いているように思えて仕方ない。
そうした状況にあって、私はなんとか真の詩的言語や霊的言語が体現された文章を読もうと努めている。辻先生の文章はそうした例の一つだ。
改めて、人には様々な領域での探究があり、その探究方法も各人様々であることを知る。また、人はそれらの領域の中で独自の課題に取り組み、同時代との向き合い方に際しても様々であることを知る。
この世界へ真の調和と発展をもたらすための苦闘の仕方は各人様々なのだ。ここで私はもう一度、自分がどの領域を通じて、どのような課題とどのように向き合い、その課題を通じて同時代にどのように関わっていくかを見つめ直したいと思う。
それは今行わなければならない検証作業であり、これから絶えず行わなければならないものだ。異国の地に身を置くことを通じて、自己と母国を絶えず見つめ、両者の課題と向き合いながら生き続けることは、自分の人生に課せられた一つの大きなことなのだと思う。
それを避けることなどできず、それと向き合うことを通じて初めて、自分の日々が確かなものとして形成されていくことを実感している。
天気予報の通り、午前中から雨が降り始めた。この雨とともに流してしまいたいものが自分の内側にあるのは確かだが、そうした衝動的な思惑に飲まれることなく、この雨とともに一歩一歩前に進むしかないのだと思う。
この雨を自らの気概で蒸発させてしまいたい。そのような気概を持って、午後からの仕事に打ち込みたいと思う。2017/7/12