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1287. SESと私の歩み


今日は一日中、ケン・ウィルバーのSESを読んでいた。本書を読み進める途中で、森有正先生の『デカルトとパスカル』と清水博先生の『「いのち」の自己組織』という二冊の和書を少し読み進めていたが、本日はウィルバーで始まり、ウィルバーで終わる一日だったと言える。

なぜ私がこの時期にウィルバーの書籍に手を伸ばしたのかを少しばかり考えていた。私がウィルバーの仕事に出会ったのは、今からかれこれ八年近く前であり、特に米国のジョン・エフ・ケネディ大学(JFK)に留学している時にウィルバーの思想体系を熱心に追いかけていた。

JFKを卒業した後は、しばらくウィルバーの思想体系に触れることから遠ざかっていたように思う。もちろん、折を見て彼の書籍を読み返すことは度々あったが、大学院に在籍中のように真剣にウィルバーの書籍と向き合うことは無くなっていった。

それから四年ほどの時間が経ち、私は再びウィルバーの残した傑作であるSESに帰ってきた。それは、これまでの自分の歩みを確認するためでもあり、これからの歩みを見出していくためでもあったのかもしれない。

SESを執筆するに際して、ウィルバーは古今東西の過去現在の偉大な思想家や学者の理論・研究を素材とし、それらに内包されている価値を正確に見極めた上で一つの数珠を作るかのように、無数の思想体系と理論体系を一つの大きな物語として編纂している。

かつてウィルバー自身が自らを称して「地図の製作者(map-maker)」と述べていたように、本書はリアリティを眺めるための巨大な地図である。ウィルバーがさらに指摘するように、読者にとってはこの巨大な地図を携えて、いかにこのリアリティを生きていくかが問われることになるだろう。 ウィルバー本人の肉声を知っているだけに、850ページほどの本書を読んでいる最中は、絶えず彼の肉声が聞こえてくるかのようであった。複雑性科学と発達科学を架橋する試みに従事していると、私がこれまで従事していた意識の形而上学の存在を時に忘れてしまうことがある。

ウィルバーの書籍は、そうした私の襟を正すかのように、客観的な探究領域だけではなく、主観的な探究領域が等しく重要であるかを教えてくれる。四年前から現在にかけて、人間の発達現象をとりわけ科学的な認識の枠組みと方法をもってして探究を進めていたため、発達現象に関してSESの中で記述されている事柄よりも多くのことが、現在の発達研究の世界の中で発見されていることに気づく。

私たちがSESを読むときに注意をしなければならないのは、ウィルバーが本書を執筆する際に採用した「志向的一般化」によって漏れてしまった知の存在を正しく認識し、それをウィルバーの大きな物語の中で自ら捉え直していくことだろう。

SESの中で記述されている発達段階モデルを見ると、志向的一般化という方法を採用することによって、確かに発達プロセスの骨子は捉えられているが、本来そこに存在する豊かな肉が削ぎ落とされてしまっている印象を拭うことはできない。そうした点において、SESを通じて発達のプロセスやメカニズムに関する理解を深めるような段階はすでに過ぎ去ってしまったことを知る。

ただし、ウィルバーがこの現代社会に対して抱いていた強い問題意識には、依然として強い共感を私は覚える。私の内面の成熟に合わせて、SESとの向き合い方が変化していることは確かであり、これからも折を見て本書を紐解くことになるだろう。

いつか、松永太郎さんが翻訳された日本語で是非とも本書を読んでみたいと思う。日本において、このように本当に優れた書籍が絶版になってしまうのは残念で仕方ない。2017/7/10

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