——人間は自己の中の至高の部分を追究することによって初めて人間となる——アンドレ・マルロー
静止画のような微動だにしない世界が窓の外に広がっている。風の動きも一切なく、動物が動く姿も見られない。
この世界が完全に停止してしまったかのような姿がそこにある。昨日、夕食を摂りながら、来年はオランダで生活を続けるのではなく、やはり米国に戻ろうかとふと思った。
これは今決めることでは決してないのだが、そのようなことをふと思ったのだ。オランダのフローニンゲンという街は、私が仕事に打ち込む上ではこれ以上にないほどの環境を提供してくれる。
この地での二年目の生活が終わった後も、さらに一年この場所に滞在できる資格がすでにあることを知っている。フローニンゲンでさらに一年の生活を送るということ、つまり欧州で三年間ほどの生活を送ることの意味は計り知れない。
それにもかかわらず、気持ちは米国に再び戻ることに傾いている。遅かれ早かれ米国に戻ることになるのは知っていたが、今の私にとっては来年がそのタイミングなのではないかと思う。この10年間を振り返ってみた時に、同じ場所に三年以上留まることができないという傾向はまだ続いているようだ。
米国に戻るとするならば、長らく私が生活をしていた西海岸ではなく、オランダから近い東海岸になるだろう。 昨夜、偶然にもフランスの作家アンドレ・マルローが残した「人間は自己の中の至高の部分を追究することによって初めて人間となる」という言葉に出会った。この言葉を見たとき、昨日読み進めていたエーリッヒ・フロムの書籍の中で書かれていたことと重なるように思えた。
結局私たちが一つの個としての自覚を持ち、それを明確なものとして確立することができないのは、自身の内側に宿る至高の部分に無自覚だからなのではないだろうか。あるいは、そうした部分への追究に怠惰だからなのではないだろうか。
今、問いかけの形式でそれを書いたが、それは強い意志を伴った解答の提示であるように思える。人間が真に人間になるというのは、生半可なことではないのだ。
昨夜、米国のテレビドラマ “Person of Interest”の中のある一話を視聴したが、そこでは人工知能によって人間が交換可能か否かを判断されるシーンがあった。残念ながら、一つの個を持たない、社会の思想や仕組みによって画一的に大量生産された人間は、本当に代替可能なものとして扱われる日が近づいているような戦慄を覚えた。
同時に、それはやり場のない憤りの感情を私にもたらした。なぜ私たちは、自身の内側にある至高の部分に目を当てようとしないのだろうか。自己の至高性とは全く関係のないものを、どうして外側に求めようとするのだろうか。 マルローやフロムの言葉は、現代を生きる私自身が、もう一度自己について深く考えることを促した。
静止画のような外界の景色に少しばかり動きが現れ始めた。それでも辺りは相変わらず静かである。
聞こえてくるのはハイドンの交響曲だけである。しかし、私はそこに自らの鼓動を聞き取らなければならないのだと思う。
また、自らの内側に流れる血潮の躍動を感じ取らなければならないのだ。さもなければ、自分の中に宿る至高の部分を見出すことなど一生できないだろう。2017/7/8