早朝の黒々とした雲がどこかに消え、薄青い空が広大に広がっている。七月に入って一週目が終わろうというのに、相変わらず涼しい日々が続く。
太陽の光を観察してみると、そもそもそれは夏の激しさを持っていない。日本で言えば、ちょうど冬が終わり、春に向かおうとする時の太陽光のようである。
書斎の窓から見える木々たちが、そよ風のリズムに乗るように、一斉に緩やかなダンスを踊り出す様は、私の心を落ち着かせてくれる。早朝、ゲラルド・ヤングの “Development and Causality: Neo-Piagetian Perspectives (2011)”という800ページに及ぶ分厚い本の二読目を開始させた。
最初から隅々読み返すというのではなく、今の自分が最も関心を持つテーマを中心に再読を始めた。すると、ダイナミックシステムの発達プロセスに関する記述を読んだ時、父が昔創作したルアーに関する記憶が突然甦ってきた。
父が作ってくれたルアーの中で、最もお気に入りだったのは、ポッパーという水面に浮かぶタイプのルアーだった。それを持って近所の沼や湖に行き、父が作ったルアーで実際にブラックバスが釣れた時の歓喜の記憶が蘇ってきたのだ。
ダイナミックシステムの発達プロセスに関する記述を読みながら、なぜそのような記憶が蘇ってきたのかは定かではない。だが、記憶を司る脳と心のシステムがダイナミックシステムであるがゆえに、そうした記憶の非線形的想起も全く不思議なことではないと思う。
いずれにせよ、過去の記憶を思い返しながら、つくづく当時の父は、浮力に関する物理的な知識を活用してルアーを作っていたのだ、と驚嘆の思いに駆られた。また、そこから当時の父は、おそらく創作の喜びを絶えず感じていたのではないかという思いも湧き上がった。
先日、ライデンの国立古代博物館を訪れた際にこの目で見た、古代エジプトの所蔵品の強い印象が再び蘇ってきた。古代エジプト人が残した数々の創作物を見たとき、「人は創作することを宿命づけられた生き物である」という言葉が自ずと漏れてきたことを思い出す。
数日前に、出版記念オンラインゼミナールに向けて、Preziを用いて説明資料を作っている最中、自分がなぜあれほどの喜びを得ていたのかという理由を知る。また、毎晩の作曲実践がなぜあれほどまでに喜びをもたらすのかの理由を知る。
それらは全て、創作に関係しているからだ。専門書や論文を読んでいて絵も言わぬ歓喜の感情が絶えず生じるのは、今このように文章を書くという創作と密接に結びついているからだろう。
なおかつ、その創作が他者に何らかの形で資することを知るとき、喜びの感情は頂点に達し、それはもはや喜びとは形容できない無形の至上的感情に変容される。この至上的感情の中に、私は、フランスの哲学者エマニュエル・レヴィナスの思想に相通じるものを見て取った。
私たちは、創作を通じて、他者に資することを宿命づけられた存在なのだろう。創作と他者という存在こそが、自分の日々の活動の根源にあることはもはや疑うことはできない。2017/7/6