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1266. 人工知能についての再考


昨日は、気づかないうちに、いつもの二倍ほどの分量の日記を書き留めていた。字数にしておよそ一万字ほどの日記を書き綴っていたことになる。

それらの文章のほぼ全てが、自分が書き留めておくべきことだと思ったことである。ただし、その中で、書こうとする自分の内側の動機、すなわち、内側の思考や感覚が外側に形なって表出されることを希求する度合いのようなものが弱い場合、それは色濃く文章に現れることがわかった。

それは力の無い文章であったり、言葉同士のつながりに違和感を覚えさせるようなものとして現れる。やはり日記を書き留める際には、内側から湧き上がる自発的な表現欲求に沿う形で文章を書き進めていかなければならないと改めて思った。

次から次へと湧き上がる言葉の流れに乗るためには、内側の強い表現欲求が必要であり、それに純粋に従うことが必要となる。昨日は、夕方あたりにいくつか人工知能に関する日記を書き留めていた。

今朝改めて、昨日の問題の続きを考えていた。どうやら人工知能の問題は、私を探究に駆り立てるものと関係していることがおぼろげながらに見えてきたのである。

人工知能の能力を前にした時、今の私が、自分の知識と経験をまとめ上げ、知識体系や思想体系のようなものを構築していくことに何か意味はあるのかと否定的な感情を抱いた。そのような体系を自らの内側に構築していくことはほとんど意味がなく、自分が全てを捧げて構築した体系よりも、はるかに洗練された体系を人工知能はいとも簡単にその内側に生み出すことができるだろう、ということを思った。

しかし、いくら人工知能が高度な情報体系を自らの内側に構築したとしても、その体系から生み出されたものを解釈し、それを活用するのは人間であることを改めて考えていた。人工知能が私たちに提出するデータや分析結果をいかに解釈し、どのようにそれを活用するかの判断は、私たち一人一人に委ねられているのだと思う。

その際に、私たちが人工知能に活用されるのではなく、私たちが人工知能を真に活用していくためには、利用者それぞれの知性が重要になるだろう。特に、人工知能が提出する情報の影響力が大きいものに関しては、その情報を扱う者には叡智が求められるように思う。 科学者や実務家としての自分を省みたとき、人工知能の情報を的確に解釈し、それをどのように活用するかの判断と方法は、やはり私のメンタルモデルの質に大きく左右されるように思えた。ここで述べているメンタルモデルとは、認知的なもののみならず、道徳的なものや倫理的なものを当然ながら含む。

そうしたメンタルモデルを洗練化させ、高度化させていく取り組みは、やはり自分に求められることなのだと思う。これは、人間と人工知能の共存という古典的な問題なのかもしれないが、人工知能が発達すればするほどに、人間が生み出すメンタルモデルよりも遥かに高度なものが人工知能の中で生み出されることは間違いないが、そうだからこそ、人工知能と共存し、それを活用する私たちには、洗練されたメンタルモデルが強く求められるように思う。

そうでなければ、読みに読み、書きに書くことを行う今日のこれからの一つ一つの活動が、全く意味のないものになってしまうだろう。2017/7/6

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