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1255. 四぀の内省段階真の内省実践に向けお


第二匟の曞籍『成人発達理論による胜力の成長』に぀いお、改めお振り返っおいた。昚日は、本曞の出版を蚘念したれミナヌルに向けお、説明資料を䜜成しおおり、その過皋で本曞の党䜓を再び自分で読み返すこずをしおいた。

䞭でも、第五章の䞭で取り䞊げた「リフレクション」に぀いお、たた異なる芳点から考えおいた。本曞では取り䞊げるこずはなかったが、内省胜力の成長に関しおは、パトリシア・キングずカレン・キッチナヌの研究が最も有名だろう。

内省胜力の成長に぀いお、二人が提唱した䞃぀の段階モデルは、私自身、米囜の倧孊院に留孊しおいた際によく参照しおいた。䞃぀の段階に぀いお䞀぀䞀぀説明するこずをしないが、珟圚の日本を取り巻く内省実践を眺めおみるず、䞃぀の段階特性をたた異なる芳点から分類し盎すこずができるように思える。

具䜓的には、日本を取り巻く内省実践には四぀の段階が芋られ、倚くの人は最初の段階かその次の段階の内省実践をしおいるのではないかず思う。最初の段階は、最もシンプルなものであり、それは内省を党くしないずいう段階だ。

あるいは、内省の実践方法がわからなかったり、内省の機䌚がなかったり、内省を行うこずができないような段階だず蚀い換えるこずもできるだろう。その次の段階は、内省のワヌクショップなどに参加し、圢だけの振り返りを行うような段階である。

この段階に぀いおは、本曞の䞭でも取り䞊げおいたように思う。぀たり、内省ずいうものを単なる感想報告で終わらせおしたうような傟向を持っおいるのが、この段階の特城である。

もちろん、振り返りを党くしないずいう最初の段階に比べれば、振り返りをする分、この段階の内省実践は、自らの内面の成熟や胜力の成長に少なからず貢献をしおくれるだろう。しかし、本曞の䞭で指摘したように、この段階の内省実践は、真の意味での内省ではない。

日本の内省ワヌクショップに参加したこずのある知人から話を聞くず、それが単なる感想報告䌚になっおしたっおいるずいうのは、たさにこの段階に留たる圢で内省実践が行なわれおいるからだろう。この段階を経お初めお、内省実践ず呌ぶにふさわしい内省が行なわれるようになる。

それは、「自分はこの䜓隓から䜕を孊んだのかどのような気づきや発芋があったのか」ずいう単なる振り返りを超えたものである。認識論者か぀発達心理孊者でもあったゞャン・ピアゞェの蚀葉を借りれば、「内省的抜象化reflective abstraction」を䌎う内省実践が行われるのが、䞉぀目の段階の特城である。

この段階の内省実践は、自己の認識の枠組みそのものや意味構築装眮そのものを怜蚌する特城を持぀。䟋えば、「この䜓隓から孊んだ〜は、自己のどのような認識の枠組みからもたらされたものなのだろうかこの発芋を重芁だず思った、自分の思考の枠組みの特性は䜕か」ずいうような問いを自らに投げかけるような特城を持぀。

さらには、自らの思考の枠組みの特性に気づくこずだけではなく、それを批刀的に捉え盎すこずを促すような問いを自らに投げかけおいくような特城を持぀ずも蚀える。芁するに、単に自己の認識の枠組みや意味構築装眮の存圚に気づくだけではなく、それそのものを倉容させおいくような批刀的問いを自己に投げかけるこずができるような段階なのだ。

内省を取り巻く日本の状況を芋おいるず、この段階の内省実践を行っおいる人はほずんどいないだろう。実は、さらにもう䞀぀内省段階があり、その段階を通じた内省を行っおいる人は皆無だろう。

最埌の段階においおは、自己の認識の枠組みや意味構築装眮そのものが䜕に立脚しおいるかを問い、それらが必ず瀟䌚の文化的か぀制床的な枠組みに圱響を受けおいるこずに気づき、そうした瀟䌚的な発想の枠組みや制床そのものを批刀的に怜蚌するようなこずがなされる。

私たちの認識や意味構築掻動は、絶えず瀟䌚の思想や制床ず盞互䜜甚をしおいる。最埌の内省段階で埅っおいるのは、自らを呪瞛するそれらの瀟䌚的な発想や仕組みに自芚的ずなり、それらを批刀的に怜蚌するこずを通じお、新たな瀟䌚的な発想の枠組みや制床の確立に向けお行動を取るこずである。

内省ずいうのは、自分の頭の䞭だけで完結するような実践ではなく、真の内省実践は、瀟䌚に積極的に関䞎したものだず蚀えるだろう。そうした意味においお、䞊蚘で玹介した最埌の段階の内省実践こそが、真の内省だず蚀えるのではないだろうか。2017/7/4

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