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1251. 世界と私:私と世界


私は改めて、自らの言葉を紡ぎ出すことによって日々支えられ、それによって何とか存在の均衡を確保しながら前に進めているように思った。それは今、自転車で通りを過ぎゆく通行人の姿がきっかけとなって思ったことである。

七月に入り数日が経った。以前書き留めていたように、七月は年間を通してフローニンゲンの気温が最も高くなる月である。

しかし、今朝も相変わらず涼しい。通りを行き交う人たちは一様に、ジャケットを羽織っている。部屋の中にいる私も上に何かを羽織っていなければ、寒さを感じてしまう。

これが北欧に近い西欧の七月の様子である。文章を書き続けることは、自らを支え続け、自らを励ましながら歩みを前に進めていくことにつながっている。

書籍の出版後に襲ったエネルギーの拡散現象を対象化し、そこから方策を導いていくことができたのも、文章を書き留めていたからだ。呼吸が途絶えることのないように、文章を途絶えることなく書き続けたいと思う。

それは、呼吸が途絶える瞬間まで文章を書き続けていたいという自分の強い思いと合致している。それはもはや思いというよりも、存在の声であり、魂の願いですらあるように思う。

ここに、呼吸や食物を摂取するという、生命活動の維持に必要な事柄全般と書くことの重要性が完全に合致している感覚を持つ自分がいる。絶えず書き、絶えず書きながら、自己の治癒と鍛錬を継続させていくということ。それをこれからも続けていく。

起床してそれほど時間が経っていないためか、この世界の動きにまだ慣れていない感覚が全身を包んでいる。同時に、全身の感覚を通じて入ってくるあらゆるものがとても新鮮に感じる。

それは例えば、今この瞬間に目に入っている、早朝の太陽光に照らされ、そよ風に揺られる新緑の木々や、書斎に流れるショパンのピアノ曲などである。何か対象を絞って見るのではなく、見ることなしに書斎の窓から広がる景色をぼんやりと眺めていた。

仮に、自宅が最上階にあったのであれば、オランダの平坦な地形上、自分の視線の先にどこまでも続く景色が見れるのではないだろうか、という思いが湧き上がった。私は、この平坦な大地を持つオランダという国で、平坦ではない人生を過ごしている。

起伏に富んだ人生と言えば、それは聞こえがいいかもしれない。しかし、そこには安易に語ることを許さない厳しさのようなものがあることは間違いない。

外から室内に流れ込む風が寒く感じられたため、私は書斎の窓を閉めた。しかし、私は自らの存在を外側に対して閉じてはならないことを知る。

自己を外側の世界に開きながらも、なお一点の自己の存在を大切にしなければならない。外側の世界に自己を不用意に開いてしまったばかりに、自己が雲散霧消してしまっている現代人がいかに多いかについて、嘆きに似た感情が少しばかり起こった。

書斎の窓の窓枠が、一つの額縁となり、外側の世界が生きた絵画となっている。この絵画の書き手は誰なのだろうか。

とっさに私は、この絵画の書き手は自然そのものであり、創造主と形容できる存在だと思った。しかしながら、そのとっさの考えをさらにとっさに打ち消すように、この絵画の本当の書き手は、創造主と自分に他ならないことに気づいた。

これがおそらく、世界の中に存在し、世界に関与し続ける自己の本質なのではないだろうか。2017/7/3

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