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1246. 一億文字の先に広がる認識世界


昨日はあれこれと多くの論文を読み、その他の仕事を通しても、一日中、文字情報と向き合うような日であった。そうしたこともあり、何かが過度に蓄積されているような重たさを心身に感じたため、昨夜は少しばかり早く寝ることにした。

すると、こういう日に限ってか、新しく移ってきた一階の住人の自宅でパーティーのようなものが催され、人の声が夜中まで途切れることはなかった。結果として、私が眠りの意識に落ちたのはいつもより遅くなってしまった。

しかし、早い時間から横になるだけでも随分と心身に与える影響は違うようであり、起床直後の私は、再び何かが充電されているような感覚に包まれていた。今日は午前中に雨が降り、午後からは曇り空に変わるそうだ。

このような日曜日はやはり、書斎で論文や専門書を読むことに限るだろう。それに加え、午前中に協働で仕事を進めている方とオンラインで会話をし、午後からは他の協働プロジェクトの仕事を進めたいと思う。 昨日の夕方、仕事の手を止め、窓越しにぼんやりと景色を眺めていると、これからの自分は、どれだけ日記という形式で文章を書き残すことができるのだろうか、ということを思った。これと似た様な問いは、以前にもフローニンゲンの街中を歩いている時に湧き上がっていた。

現在、特に意識をすることもなく、何かに駆られ、必然的に毎日五千字ほどの日記を綴っている。先日世の中に送り出された『成人発達理論による能力の成長』の文字数は、およそ15万字であったから、毎月それに匹敵するほどの日記を書き留めていることになる。

仮にこれからの50年も、同様の分量の日記を書き続けていけば、600冊ほどの日記となるだろう。実は、このような数量計算をふと行ったのは、昨年の夏に出かけた欧州小旅行の時だった。

あれはおそらく、ドイツのリアーからハノーファーに向かう列車の中の出来事だったと思う。ハノーファーに向かう最中、ある時、車窓から一つの古城が見えた。

その古城をぼんやりと眺めていると、「一人の人間が一億文字を外側に表現した際に、どのような認識世界が広がるのだろうか?」という問いが生まれた。その問いが生まれた時、実際に自分でそれを行い、自らの存在をかけて確かめてみたいという蠱惑的な衝動が芽生えた。

言ってみればそれは、ある止むに止まれぬ衝動との同一化であり、それに逆らう手段など私にはなかった。また、一億文字を表現した後に広がる認識世界というものが、これまでとは何ら変わらぬものであったとしても、その徒労を積極的に引き受けようとする気概のようなものがあった。

いや、これまでと何ら変わらぬ認識世界であるはずはないという確信めいたものがその時にあり、一億文字を表出して初めて広がるであろう認識世界に対して、不気味な関心を持っていた自分がいたのである。

ハノーファーに向かう列車の中、私はこの試みに着手したいと静かに思っていた。今後、私は様々な形式の文章を書くことになるかもしれないが、本音で言えば、表現形式は英語での学術論文と日本語での日記の二つに絞りたい。

一億文字を紡ぎ出していくという試みを静かに進行させていく傍らで、学術論文を書き続けたいと思う。一億文字を外側に表現した際、その人間の認識世界はどのようになるのか本当に気になる。2017/7/2

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