再び今日という一日が始まった。起床直後、書斎に向かい、いつもと同じように身体を少し動かす。
その後、ヨギティーを作り、早朝の仕事に取り掛かる。昨日も述べていたように、今日も天気が優れず、今は曇り空が広がっている。昼食前から雨が降り始めるようだ。
書斎の中には、サン=サーンスの交響曲が鳴り渡り、書斎の外の世界には風のざわめきが見える。室内の音楽と屋外の自然の調べが相まって、自分という存在が静かにざわめくようだ。
今日という一日を始めるにあたり、本日の中で何を進めていくかを明確にしておかなければならない。今日は午前中に、ニラ・グラノットとジム・パーツィアーレが編集した “Microdevelopment: Transition Processes in Development and Learning (2002)”を読み進める。
本書には、ロバート・シーグラー、エスター・セレン、カート・フィッシャー、マーク・レヴィス、アネット・カミロフ=スミス、ポール・ヴァン・ギアートといった、発達科学の重鎮たちが論文を寄稿している。
本書は、一昨年に英国のケンブリッジ大学を訪れた時、版元のケンブリッジ大学出版の書籍を扱う専門店で購入したものであり、何かと思い入れがある。今日はこの一冊を全て読み終えることができたらと思う。
夏の休暇に入り、論文を集中的に読んでいくか、一日に一冊の専門書を読むということが習慣になりつつある。この習慣は、夏の休暇の早いうちに構築したかったものなので、すでにそうした習慣が定着し、日々をそうした習慣を通じて過ごせていることはとても望ましい。
書斎の机に積み上げられた文献を見ると、ここからの数日間は、論文というよりも、専門書を読むことが続きそうである。いずれにせよ、自らの関心に沿った知識領域を横断し、一つの大きな知識体系にまとめ上げていくという作業に打ち込みたい。
内側に生じている静かな存在のざわめきを確かに感じながら、私は今朝の夢について思い出していた。今朝の夢には、私が以前に師事していたオットー・ラスキーが現れた。
夢の中で私は、査読付き論文のような本格的なものではなく、期末レポートのようなものを書いていた。その中で、表現上の非常に些細な点について、オットーに質問する場面があった。
オットーは、親切に私の質問を聞いてくれ、すぐさま回答を述べた。どうやら、私の文章表現に間違いはないとのことであった。
だが、その後、「この論文は何のために書いているのか?」ということを尋ねられ、私はそれに答えた。すると続けざまに、「この文章を取り巻く文脈は何なのか?」ということを尋ねられた。
一つの文章は、大きな文脈と照らし合わせて、初めてその意味が浮かび上がり、一つの単語は、それを取り巻く周辺の文章の文脈と照らし合わせることによって、初めてその意味がわかるということを、オットーは私に伝えようとしているかのようであった。
もちろん、それは明示的なものではなく、その問いは、オットーの自然な探究姿勢から生まれているように思えた。その問いに対しても、できるだけ簡潔に私は答えた。
私の回答に、オットーも納得したようであり、そこで私たち二人は別れた。夢から覚めてみると、オットーの質問に対して、言葉を選びながら話を進めていた感触が内側に残っていることに気づいた。
つまり、それは、英語を用いた話し言葉を構築していくという建築的な感覚である。これは英語だけに限らず、母国語にも当てはまることだが、もう少し自分の話し言葉に正確さと精密さが欲しいと思う。
そして、建築性を持ちながらも流れるような感覚を伴う話し言葉であれば、なお望ましい。サン=サーンスの交響曲を聴きながら、なお一層そのようなことを思った。2017/6/30