今日は午前中に、スピノザ記念館で先日購入した論文集を二つほど読んだ。どちらも小冊子であり、一つは、心身問題に関するスピノザの観点を主に扱うものであり、もう一つは、経済学者としてのスピノザを扱っているものであった。
当然ながらどちらも面白く読み進めていたのだが、スピノザが「利子」という概念を深く掘り下げていることは、特に興味深かった。スピノザの論文集を読んだところで、日本のある研究組織と現在進めている調査に関する仕事に取り掛かった。
私はつくづく、協働者に恵まれていると思う。今回の調査にあたり、当該組織の研究員の方が作ってくださった資料を拝見しながら、特にそうしたことを思った。
また、資料を改めて何度も読み返していると、今回の調査の意義を再確認すると共に、こうした調査を通じて、企業社会における具体的な課題や問題に絶えず取り組んでいくことは、私にとって大きな意味を持つことを実感した。
資料に記載されている大枠の情報と図表を頭にしまい込み、昼食前に、四日分の食料を購入しに買い物に出かけた。少しばかり雲がかった空の下、今日の気温は相変わらず涼しい。
七月になろうというのに、外出する際には長袖を着用する必要があった。行きつけのチーズ屋に向かう最中、具体的な社会的課題に取り組み続けることの意味と意義について、絶えず考えていた。
その意味と意義は、今の私の中でかなり明確となっており、その取り組みに従事し続けることに関して何らの迷いもない。また、課題へ取り組む手段的な側面においても、それは科学的かつ哲学的なものでなければならない、という明確な意思がある。
しかし、そうした意思の背後に、灰色の影が見えた。今の私は、科学的かつ哲学的な探究を継続させ、その探究の成果の一端をなんとかして社会の具体的な課題に適用することを希求し、それを一生涯にわたって継続させていきたいと思っている。
私の脳裏によぎった灰色の影というのは、そうした試みを一生涯にわたって行うことの限界を暗示させるようなものだった。それは、人間誰しもが最終的には感じざるをえない衰えに関するものだった。
前の学期に履修していた「成人発達とキャリアディベロップメント」のコースの中で、改めて「結晶化知性(crystallized intelligence)」と「流動的知性(fluid intelligence)」について考える機会があった。
科学的かつ哲学的な探究とそれを基にした実践活動は、流動的知性以上に、結晶化知性を活用するものであり、その知性は一生涯にわたって育まれていくということを考えながらも、そうした理性的な論理をもってしては、私を取り巻く灰色の影が消えることはなかった。 行きつけのチーズ屋に到着した私は、店主の女性に挨拶をし、会話を交わした。この世界において、一体いくつの街が私にとっての「故郷」と呼べるのか、その数を数えたことはないが、もはやフローニンゲンの街は、自分にとっての故郷だと思えるようになってきている。
一つの大きな空間の中に、フローニンゲンという街がたたずんでいるように、フローニンゲンという街の中に、私という存在がたたずんでいる。あるいは、この街に溶け込んでいると形容していいかもしれない。
自然体であることを許す、こうした感覚が、この街を私にとっての故郷だと感じさせ始めているのだろう。チーズ屋の店主から、今日は少しばかり新しいオランダ語を教えてもらった。
人とのそうした一つ一つの交流が、今の私にはとても貴重なもののように思えた。チーズ屋を後にしは私は、軽やかな足取りで自宅に戻ることにした。
ぬぐい去ることのできない灰色の影がいかに眼前にちらついていたとしても、私は歩き続けたいと思う。毎日毎日、何度も何度も、そのように生きると決めたはずだ。2017/6/27