先日、インテグラル・ジャパン代表の鈴木規夫さんと『成人発達理論による能力の成長』の出版記念対談をさせていただいた。
対談の冒頭で、カート・フィッシャーの理論とロバート・キーガンの理論の関係について質問を受け、その点についてもう少し補足が必要だと思った。書籍の中では、前者の理論を「能力」を扱うものとし、後者の理論を「器」を扱うものとして紹介している。
執筆時において、この説明の仕方が読者にとっては最も理解しやすいのではないかと思ったため、そのような分類をした。しかし、対談の中で述べたように、実際には、フィッシャーの理論はキーガンの理論を包摂する関係になっていると私は考えている。
これはあくまで、理論的な包摂関係である。セオ・ドーソンやザカリー・スタインのように、発達理論をメタ的に研究する学者の間では、前者の理論がしばしば「領域全般型モデル」と呼ばれるのに対し、後者は「領域特定型モデル」と呼ばれる。
これは、フィッシャーの理論モデルは、多様な発達領域における成長プロセスを説明するモデルであるのに対し、キーガンの理論モデルは、ある一つの発達領域における成長プロセスを説明するモデルである、ということを意味している。
また、拙書の中で具体例を挙げたように、フィッシャーの「点・線・面・立体」の説明モデルを活用すれば、キーガンの理論が扱う意識の発達領域について説明をすることができるのだが、その逆はできない。つまり、キーガンの意識の発達理論をもってして、フィッシャーの理論が扱う他の発達領域の成長プロセスを説明することはできないのだ。
これがまさに、キーガンの発達理論が「領域特定型」と呼ばれる所以である。対談の中で、若干誤解を与えてしまったかもしれないが、フィッシャーは、「スキル」というものを、特定の環境における具体的な課題に対して発揮される能力であり、それは学習や経験によって育まれるものであると定義している。
前作を含め、今作でも、キーガンが扱う意識の発達領域を「人間としての器」として捉えたが、それらの器はどのように発揮され、どのように育まれるだろうか。それもまさに、特定の環境における具体的な課題に対して発揮されるものであり、それは学習や経験によって育まれるものであるがゆえに、厳密には、それもまたフィッシャーのスキルの定義に合致するのだ。
しかし、日本語において、「器」という言葉には特殊な語感が備わっているだろうし、「スキル」というカタカナを聞くと、何か表面的な能力のようにみなされてしまいがちである。そうした日本語の語感を考慮したがゆえに、私はあえて、フィッシャーの理論が扱う発達領域を「能力」と呼び、キーガンの理論が扱う発達領域を「器」と呼ぶことにした。
対談の中で、鈴木さんが指摘しているように、キーガンの理論が扱う意識の発達には、どこか深いものが内包されているのは確かである。そもそも、前作の書籍の中で紹介しているように、キーガンは、実存心理学者のロロ・メイやヴィクトール・フランクルなどから多大な影響を受けている。
そうした心理学者の思想は、人間の実存的な特性や意味を構築する力など、私たち個人の内面の深くにある事柄と密接に関係しているのは間違いない。そうしたことから、キーガンが扱う意識の発達理論には、どこか深さを漂わせるものがあるのだ。
そうした深さを尊重して、私は「器」という言葉を当てたのである。一方で、フィッシャーの理論が扱う能力に深さがないかというとそうではない。
それは本書の中で指摘した通りである。ただし、フィッシャーが扱う能力領域の多くは、現実世界のより具体的な課題や実務に立脚した中で発揮されるものであるがゆえに、実存的な深さのようなものはさほど感じられないのである。
さらに付け加えると、キーガンが扱う発達領域は、キーガン自身が指摘するように、意味を構築する「能力」なのである。そして、自己を取り巻く世界を認識する「能力」なのである。
まさに、キーガンの理論が扱う発達領域も、厳密には私たちの「能力」であるがゆえに、それはフィッシャーの理論に包摂され、フィッシャーの厳密な定義における「スキル」に包摂されるものなのだ。
しかしながら、最後に繰り返しになるが、日本語の語感として「スキル」や「器」という言葉に文化的な意味が内包されているがゆえに、誤解を与えることを防ぐためにも、私はキーガンの理論が扱う発達領域を「器」と表現し、フィッシャーの理論が扱う発達領域を「能力」と呼ぶことに留めたのである。2017/6/26