早朝、日記を少しばかり書き留めていると、自分の文体が揺らいでいることに気づいた。文体を支える土台が揺れており、言葉に生命力のようなものが宿っていないことに気づいた。
文体というのは、その人を映し出す鏡のような特徴を持っており、その人の本質的な特性を映し出すだけではなく、より表層的に、その人の今この瞬間における状態をも映し出すように思える。
先ほどの自分の文体には、どこか力がこもっていないような印象を受けた。今この瞬間に気づいたが、「文体」というのは、文字通り、からだに他ならず、それは精神と密接につながっているものなのだと改めて思う。 昨夜はいつもより短めに、作曲の学習と実践に励んでいた。“Composing Music: A New Approach (1980)”の第二章を全て読み終えたところで、午前中に読んでいた論文に記載されている、バッハのシンフォニアの楽譜の一部を思い出した。
すると私は、その楽譜を作曲ソフトの五線譜上に再現したいという思いに駆られた。すぐにその楽譜を再現することを始め、実際にその曲を再生した瞬間、大きな感動に包まれた。
それは、小鳥が羽ばたく羽の連続的な音を想起させ、羽を小刻みに動かしながら飛翔に向けた準備をするイメージとそこから実際の飛翔へと至るイメージが、連続的な音の流れの中で想起されたのだ。
私は、この曲を何度も何度も再生し続けた。バッハの作曲技法の崇高さに思わず感嘆の声が漏れた。
冗長な表現を一切許さず、単に「すごい・・・」という言葉だけが漏れた。正直なところ、このところ、ベートーヴェンのピアノ曲を型にして、自らの作曲技術を磨いていくことの難しさを感じていた。
楽曲解釈の専門家からしてみれば、ベートーヴェンのピアノソナタ第一番は、それほど複雑なものではないとみなせるのだろうが、門外漢の私からすると、それは異常に複雑である。
こうしたことから、ベートーヴェンのピアノ曲から作曲の体系的な方法を構築していくことは難しく、ましてや美の創出方法をそこから汲み取るのはさらに難しいことであった。一方、この論文に記載されている曲のように、バッハが残した楽譜は、外形上それほど複雑ではないように私には思える。
実際、私が感銘を受けたその曲は、その表面上の姿形だけであれば、私にも十分に作曲可能なものに思えた。それぐらいにシンプルな楽曲の中に、これほどの美を具現化させることのできたバッハは、やはり偉大な作曲家だったのだと思う。
もちろん、バッハの曲の中には複雑なものもあるだろうが、バッハの曲を参考にしながら、自分の作曲技術を高めていくことが望ましいように思えた。この感覚は、実はモーツァルトの曲に対しても感じており、作曲の体系的な方法と美の創出方法に関しては、バッハやモーツァルトに範を求めるのが最善であるように思えてきた。
バッハとモーツァルトの楽譜を購入し、この夏は、この二人の偉大な作曲家の曲を解析することを通じて、少しずつ自分の曲を生み出していきたいと思う。2017/6/25