深く静かな感動に私は包まれていた。このところ、仕事をする際には、絶えずモーツァルトの協奏曲を聞いていた。
毎日、14時間ほど延々とモーツァルトの協奏曲を聴いている私の心は非常に落ち着いており、それもあってか、全ての仕事が一つの統一的な規律の中で営まれていることがわかる。ここしばらくは、ベートーヴェンのピアノソナタからは離れ、そのような音楽生活を送っていた。
昨日、偶然ながら、ガストン・リテーズという盲目のフランス人オルガニストの存在を知った。早速、リテーズの幾つかのCDをダウンロードし、今朝一つのCDを聴き始めた。
それは、 “Messes des paroisses avant”というものだ。このミサ曲が、早朝の私の心を打った。
これまで私は、オルガンの魅力を自分の芯から体感したことがなかった。だが、今朝の私は、オルガンの音が到達しようとする崇高な世界に触れるような感覚があった。
いや、オルガンの音に導かれて、崇高な世界に自ら参入していくような感覚があったのだ。オルガンの音と人間による歌の組み合わせが、自分が人間であるという確かな自覚をもたらし、人間は人間を超えた世界に参入しうる存在なのだということを知らせるかのようであった。
このミサ曲を聴く時、なぜバッハがオルガン曲を作曲し続けたのかという理由を知り、カトリック教会がなぜミサ曲を大切にしているのかという理由の一端を理解したように思った。オルガンの音と人の歌声が、深く自分に染み渡り、そこからまた駆け上がる気流のような感覚が自分の身体を通り抜けていく。
しばらく私は、リテーズのオルガン演奏とそれに付随する名の知れぬ人たちの歌声に耳を澄ませていた。そこから私は、昨日の作曲の学習と実践について振り返っていた。
今の私は、作曲をするための型を一つ一つ学んでいる段階にあり、改めて型を着実に習得していく重要さを実感していた。以前の日記で書き留めていたように、型というのは、表現を制限するような容器ではなく、むしろ自由な表現を可能にするための媒介物なのだと思う。
制約と自由は一対の概念であり、制約がなければ自由はなく、自由があるところには制約が不可欠なのだ。ここで言う制約には、否定的な意味合いは含まれていない。
まさに、自由を実現するために制約があり、作曲における型というのはそのような制約のことを言うのだと思う。そのようなことを思うとき、日本の高等教育において、なぜ文章を書くということに関する型を教授しないのか、という疑問と不満が生まれた。
一部の高校や大学では、文章を書くことの型を習得するための教育が提供されているのかもしれないが、私たちの多くは、そのような型の習得機会を得ることはほとんどないのではないかと思われる。私自身、25歳の時に米国の大学院に留学して初めて文章を書くことの型を習ったように思う。
それはもちろん、英語による論文を執筆するための型であり、そのように考えてみると、私は、日本語で文章を書くことに関する型を一切学んでこなかったことに気づかされる。確かに、これまで日本で受けてきた教育の中に、文章を書く機会は幾度なくあったが、そこには、文章を執筆することの作法に関する鍛錬が圧倒的に欠落していたように思う。
これは、私のみならず、多くの日本人に当てはまることではないだろうか。そうであれば、日本人はどうやって真っ当な日本語の文章を書くことができるのだろうか。2017/6/24