昨日、マライン・ヴァン・ダイク教授との面会を済ませた私は、社会科学キャンパスを後にし、自宅に向かっていた。キャンパスから自宅に戻る時は、いつもノーダープラントソン公園を通ることにしている。
ここは市民の憩いの場所であり、四季折々の変化をそこにいつも見て取ることができる。今の季節は初夏ということもあり、青々とした緑が公園内に溢れ、晴れの日は、太陽の光が美しく池に反射する。
そして、大きな池を囲む芝生には、人々がシートの上に横になり、とても平穏な世界がそこにある。昨日、天気が下り坂に向かっていることを確認した私は、足早に公園を横切っていた。
大きな池の前に差し掛かった時、普段は池の中に浮かんでいることが多いアヒルたちが、池の外にたたずんでいた。たたずむアヒルたちを見ていると、色や大きさを含め、一羽一羽のアヒルが様々な個性を持っていることがわかった。
すると私は、個人は自己の内側に「ブラックスワン」を持つことが大切であり、それを育むことがさらに重要なのだと思った。ここで述べているブラックスワンは、金融の世界で元来用いられている意味とは異なるかもしれないが、自己の中にある予期せぬ形で生まれた異質な特性のことを指す。
私たちの多くは、そうした特性に気づかないか、あるいは、それに気づいていたとしても、それを育む手段が分からなかったり、あるいはそれが異質なものであるがゆえに、それを排斥や抑圧しようとする傾向がある。
しかし、私たちが人格的にも能力的に成熟を遂げていくときに、こうした異質な特性は極めて重要な存在となる。以前の日記で書き留めていたように、私たちの人格や能力を一つの生態系と見立てると、その生態系が持続的な成長を遂げていくためには、生物多様性を確保しなければならない。
仮に、私たちがそうした異質な特性を排斥し、抑圧するようなことがあれば、生態系全体が危機に瀕してしまうだろう。これは個人だけに当てはまることではなく、組織や社会においても当てはまる。
つまり、組織や社会という生態系が持続的に成長していくためには、ブラックスワンが必要なのである。今、私はここで、ブラックスワンという言葉を用いたが、これはコンピュター上における「バグ」と言ってもいいだろう。
先日、長らくプログラミングに携わっていた方から大変興味深い話を伺った。それは、映画マトリックスにおける主人公は、マトリックスの世界の中におけるバグであり、そのバクがマトリックスの世界に調和をもたらし、その世界を救済する者として扱われているということだった。
まさに、これは社会の発達の本質を突いているように思える。仮に、バグが存在しなければ、マトリックスの世界は均質的となり、その世界が一段高次元の世界に発達していくことはなかったはずである。
その方の話を聞きながら、私は映画の内容を回想し、個人や集合の発達について考えさせられることが多々あった。個人が自身の人格や能力を育んでいくというのは、自分の中にあるブラックスワンやバグを保持し、それを育んでいくことと不可分であり、組織や社会が個人を育んでいく際にもまさに同様のことが言えるだろう。
池の前に不揃いに並んでいるアヒルたちは、きっと自分固有の異質な特性を大切に保持し、それを自然と育んでいったのだろう。これが自然の姿であり、そこには異質な多様性が溢れているのだ。
なぜ私たち人間は、自己や個人の異質性を均質化しようとするのだろうか。2017/6/23