本日の夕方から、二ヶ月半ほどの夏期休暇に入った。最終試験終了後、自宅に戻ってから早速、この休暇を利用して読もうと思っていた論文群に手をつけ始めた。
今から数日間ほどは、まずMOOCに関する論文、インナ・セメツキーの教育哲学に関する論文、ダイナミックシステム理論に関する論文を読む予定である。そこからは、七月に一括購入する予定の専門書が届くまでの期間において、書斎の本棚にある専門書と哲学書をとにかく順番に読み解いていく計画を立てている。
この夏の集中的な読書は、秋以降、特に冬の時期における私を大きく支えるものになるだろう。さらには、この夏の集中的な読書は、今後長きにわたって私の探究の重要な土台になってくれるだろう、という予感がしている。
最終試験から自宅に戻り、コーヒーを入れて一息つこうとしたところ、能力の成長に関する「バランス」について新たな問題意識が芽生えた。もしかすると、拙書『成人発達理論による能力の成長』を読むことによって、自分の中で現在能力がそれほど高くないものを高め、能力全体のバランスを取ることが望ましいという発想を持ちかねないことを危惧した。
私たちは、ここで用いられている「バランス」という言葉を吟味しなければならない。なぜなら、一般的に用いられる「バランス」という言葉は、「均衡(equilibrium)」と「均質(homogeneity)」の二つの異なる意味のうち、後者のことを指していることが多いからである。
結論から述べると、能力の成長において重要なバランスというのは、前者であり、決して後者の意味ではない。能力の成長において、「均衡」というのは何を指しているかというと、多様な能力が当人の中に存在し、それらの能力のレベルも多様性が確保され、そうした多様性が一つの安定的な状態を作っていることを指す。
まさにこれは、調和の取れた生態系のイメージである。一方、「均質」というのは、能力の種類とそれらのレベルにおける多様性が確保されていない状態のことを指す。
生態系の例で言えば、その生態系内に強弱に富んだ生物種の多様性が乏しいイメージである。仮に、私たちの能力が後者のような状況に置かれてしまうと、それは能力全体の生態系が一気に崩壊しかねない危険性を持つ。
その様子は、生態系内に強い力を持った動物だけを生息させようとした場合に、その生態系が必ず破壊してしまうのと同じである。これは、人間の成長のみならず、組織の成長においても等しく当てはまることである。
私たちに求められるのは、能力の多様性を確保することであり、様々な種類の能力レベルが異なっていればいるほどに、能力全体の生態系は健全な姿で営みを継続させていくことができる。仮に、ある能力のレベルが低いからといって、それを強引に引き上げようとするような働きかけをすると、生態系全体を破壊してしまう危険性を念頭に入れておかなければならない。
認識論者かつ発達心理学者のジャン・ピアジェは、「均衡」という言葉を用いて、段階の移行過程を説明している。その文脈における均衡と、今ここで紹介した意味は完全に一致していないが、ピアジェも生態系のイメージを用いて能力の成長について考えていた点では同じである。
ここに、ピアジェが、複雑性科学の発想に基づいて人間の成長を捉えていたことがわかる。そこからさらに、なぜ多くの人たちは、能力の成長を均質化させようとする発想を持つのかについて考えていた。
一つにはもちろん、人間の能力の成長を複雑性科学の観点、特に生態系のメタファーを用いて捉えようとする観点がないからだろう。これは、ある意味、複雑性科学の知識の有無に関するものであるため、ひとたびそうした知識を獲得することができれば、能力の成長を均質化させようとする発想から抜け出ることができだろう。
しかし、ことはそれほどに容易ではないことに気づく。おそらく、複雑性科学の知識を得たところで、多くの人は相も変わらず、自分の能力の中で弱い生物種の力を向上させることに躍起になるだろうと思われる。あるいは、強い生物種の力をさらに引き上げることばかりを考えることになるだろうと思われる。
そもそも冷静になって考えみると、私たちの能力全体という生態系は、捕食者と被食者の関係性が至る所に見られる。つまり、ある能力が向上すれば、他の能力が停滞することは十分に考えられ、一つの能力に特化して鍛錬を続ければ続けるほど、他のある能力が劣化していくことは十分に考えられるのだ。
さらにそもそも、なぜこのような現象が見られるかというと、私たちの資源は有限だからだ。私たちが能力の成長にかけることのできる時間や身体的・精神的なエネルギーなどは、そもそも有限な資源なのだ。
ここに私は、現代社会を覆う盲点である「資源の有限性」に関する問題が関わっている気がしてならない。現代社会の中にいる私たちは、資源を無限のものだと錯覚しがちである。
そうした錯覚を生む一つの大きな要因は、既存の経済原理にあるだろう。既存の経済原理における発想は、どうしても資源というものを無限なものだと錯覚しがちであり、無限成長を求める傾向にある。
こうした社会的な発想が、やはり私たち個人の発想を呪縛しているように思えるのだ。そして、そうした呪縛は、能力の成長を考える際にも色濃く現れている。これは非常に危惧すべき事態だと私は思う。
私たちは間違いなく、有限な存在であり、能力の成長に費やすことのできる資源も無限ではないのだということを強く自覚しなければならない。こうした自覚がなければ、私たちは、自らの能力全体の生態系を破壊してしまう悲劇に見舞われてしまうだろう。
現代社会において、私たちに求められているのは、能力の成長を推進していくというよりも、まずは自らの資源の有限性に気づき、無限成長を追いかけようとする既存の発想からいち早く抜け出ることにあるように思うのだ。2017/6/19