先ほど、一年目のプログラムの最終試験を全て終えた。今日は、太陽が燦々と降り注ぐ夏日であり、試験会場に行く最中の道のりは、とても暑く感じた。
今日の試験は、「成人発達とキャリアディベロップメント」に関するものであり、一年目のプログラムを締め括る最後の試験だった。この一年間で受講してきたコースの最終試験は全て、コンピューター上で解答するものか手書きで解答するものだった。
中には、期末の論文を課すコースもあった。今回のコースは、論文だけではなく、選択式試験も加味して最終成績を評価することになっていた。
私自身、フローニンゲン大学で初めて選択式試験を受けることになったため、出題形式や出題難易度などに未知の部分が多々あったが、比較的満足のいく出来であったように思う。試験会場を後にした私は、広大なキャンパスと同じように、開放的かつ解放的な心になった。
ようやく一年目のプログラムが全て終わったことに対して、大きな安堵感を得たようだった。この一年間で得た学びというのは、知識面のみならず、むしろ知識以上により重要なことを数多く学んだように思う。
それについては、また改めて書き留めておきたい。とりあえず今は、この解放感を持ったまま、これから始まる夏の休暇における探究活動に入っていきたい。 眩しいぐらいに輝く太陽のもと、私は、キャンパスから自宅に戻る最中に、発達測定について改めて考えていた。本書『成人発達理論による能力の成長』で紹介した、カート・フィッシャーのダイナミックスキル理論を活用した測定手法は、領域固有型ではなく、領域全般型という特徴を持つがゆえに、理論上は全ての能力について測定をすることができる。
また、「測定」の重要さについて本書の中で指摘したように、能力の成長を育んでいくためには、適切な測定手法と適切な課題と支援が必要になる。しかし、ここで誤解して欲しくないのは、日本では能力の発達度合いを正確に測定する手法がまだ存在していないがゆえに、フィッシャーの測定手法は非常に価値があるが、過度な「測定主義」に陥らないようにするという発想も等しく私たちに求められる。
いくらフィッシャーの理論を活用した測定手法が領域全般型の特徴を持っているとしても、この世界には測定する必要のない能力があることを忘れてはらない。それらは、実務的な理由から測定する必要のないものかもしれないし、倫理的・道徳的な観点から測定してはならないものかもしれない。
いずれにせよ、私たちのあらゆる能力を測定しようとするような極端な態度に陥らないようにしなければならない。というのも、構造的発達心理学の枠組みによる発達測定手法は、間違いなく質的な差異を測定しているのだが、その結果は「レベル」や「段階」という形で数値化される。
仮に、私たちのありとあらゆる能力の質的差異が測定され、それが数値化されるような事態は、地獄絵図ではないだろうか。そのような世界を想像すると、「支援」や「育成」という言葉が消え去り、「管理」と「培養」という言葉がはびこってしまうのではないだろうか、とゾッとしてしまう。
私たちは、能力の質的な差異を見極められるようになるだけではなく、真に測定するべき能力が一体何であるのかという見極めも合わせて行っていかなければならないだろう。2017/6/19