薄く覆われた雲の中、時折晴れ間が顔を覗かせるある土曜日。今朝は、「成人発達とキャリアディベロップメント」の論文を読むことに多くの時間を充てていた。
月曜日の午後の最終試験を終えれば、いよいよ夏期休暇に入り、ここで私は、これまでの自分の探究姿勢と探究領域を根本から見つめ直すような大きな企てを実行したいと思う。
今朝も論文を読みながら、ふと思考が論文の内容ではなく、自分の内側に向かったとき、「一体私はいつになったら自分の仕事を始められるのだろうか?」という問いにぶつかっていた。欧州で生活を始めて以降、この問いの影を見なかった日は、ただの一日も存在しない。
毎日毎日、どこかの時間帯に必ずこの問いが私を襲い、自らの仕事とは何たるかを問いだたされ、それを開始するまでの長い道のりを嫌というほどに突きつけられる。この問いとともに自らの内側に生じるのは、安直に既存の自己を受け入れようとする世間の風潮や、自己批判の精神を失った世間の風潮に基づく種々の誘惑的な発想やあり方である。
そうしたものを一切排斥し、今、自分が少しずつその輪郭を掴みつつある自らの仕事に向けて、一つ一つの歩みを意味と納得感を持って進めていかなければならない。
この夏の休暇は、自らの仕事を始めるための「準備のための準備」をするための重要な期間になるだろう。おぼろげながら見えてきている自らの仕事の開始時期、八年後からの仕事の開始に向けて、私はその準備のための準備をしなければならない。
しかも、それは徹底的な準備でなければならない。先ほど、私は改めて、自分の実年齢を思い出した。
エリク・エリクソンやダニエル・レヴィンソンのライフサイクル理論は、まさに今の私の実年齢が当てはまる年代の人間が抱えるであろう発達課題を見事に描き出している。この発達課題を私は自分の芯から通り抜けていかなければならない。
今の私は、実年齢とは強い相関関係のない構造的発達心理学の枠組みにおける発達課題と、実年齢に対応した発達課題の双方を同時に抱えている。自分の両足に重たい鎖が絡みついているような感覚を持ちながら、それらの鎖を引きずりながらでも、準備のための準備をこの夏の二ヶ月間にわたって行っていきたい。 生きる上での信仰心とある種の誓いのようなものは、今の私にとってなくてはならないものだ。この夏の徹底的な準備の先に、八年後から始まる自分の仕事があるのだと確信している。 一昨日、二作目の書籍が無事に世の中に送り出されたが、それは一通の手紙のようなものに過ぎない。確かに、その中に伝えたいことを込め、それを必要としてくれる人のところに届くというのは、それはそれで意味があるのだと信じたいが、今の私は自分が産み出したものを断固として認めることができない。
世の中に自分の文章を公表するというのは、自己の無知さを世の中に知らしめることであり、恥を晒すことに他ならないように思える。しかし、無知さと恥を晒しながら、そして自己の創造物を断固として否定しながらでなければ、今の私はもう一歩も前に進めないような気がするのだ。
全く別の次元の全く異なる人間になろうとする幻想と私は日々格闘している。そうした幻想との格闘の中、やはりこの夏は、自己を根底から覆すような試みに着手しなければならない。2017/6/17