ここ数日間は、早朝の日課であるカントの哲学書の音読と、就寝前の作曲の学習と実践を意図的に控えている。二つの最終試験と共に、一つの論文提出が迫っていたからである。
最終試験の準備の過程で、結局のところ、論文を音読し続けることを行っていたが、やはり早朝に哲学書の音読をするという日課には、特別な意味と作用が含まれているように思う。また、作曲の学習と実践をここ数日間はどうしても控えなければならなかったが、それに関しては目立った問題などは浮上していない。
やはりそれは、自分の内側で作曲の実践体系が構築されておらず、内側の現象に支障をきたすような次元での継続的な取り組みが、まだ行えていないことを示唆しているように思えた。月曜日の午後に全ての最終試験が終わるため、そこからは作曲にせよ、早朝の哲学書の音読にせよ、これまでの日常と全く変わることのない日々の過ごし方になるだろう。 だが、一つだけこれまでと異なることがあるとすれば、それはやはり、最終試験を終えた日から始まる夏季休暇における、自分の主題の徹底的な追求だろう。これまでの自分を根底から覆すほどに、論文と専門書を読み進めていこうとする気概がある。
この夏の過ごし方は、おそらく今日のランニングの時に現れた100歳の自分からしてみれば、非常に滑稽な形で時間を使っているように思えるかもしれない。だが、私はこれを必ず完遂させていかなければならない。
これまでの知識と経験の体系を、全く次元の異なる場所に配置し直さなければならないことをひしひしと感じている。それは望むと望まぬとにかかわらず、それを行おうとする意志の有無にかかわらず、それが迫ってきているのだ。
それを避けることは全くできず、私にはそれを避けるような手段も残されていないように思える。残されているのはそれに立ち向かう手段だけであり、それは、これまでの自己の根底を覆すほどの投入量と切迫感を伴った、実存的な読書にある。
月曜日の最終試験の終了の合図とともに、その試みを開始したい。 夕食前に書き留めていた続きとして、私たちの能力は、知識と経験の緻密なネットワークを形成するという点も見過ごすことができない。第二弾の書籍の中では、「人とは何か?」というテーマについて、いくつかの回答事例を示したが、これはあくまでも一例に過ぎず、それらの回答が心理学的、もしくは哲学的な領域のみに立脚していたことに気づくのではないだろうか。
実際には、この問いに対して回答するときに、回答の立脚点は様々なものがある。生物学的な領域、歴史的な領域、社会的な領域など、多様な領域に立脚して回答することができるだろう。
私たちは、一つの事象を深く捉えるようになればなるほど、それを複数の観点に立脚する形で知識と経験のネットワークを形成するようになる。また、本書の中で扱った会計学の例を思い出してみると、実際には財務会計と管理会計の中にさらに細かな項目が存在する。
そうした項目の一つ一つの知識と経験のネットワークの網の目を広く・深く張り巡らせていくことによって、専門領域や関心領域における能力は複雑高度なものになっていく。さらには、多様な領域を越境できるような専門家は、こうした知識と経験のネットワークを複数の領域で構築していると言えるだろう。2017/6/16