今日は早朝の五時過ぎに起床し、毎朝の習慣である身体運動を簡単に済ませたところで、書斎の机についた。まずは昨夜の夢について簡単に振り返り、朝に思い浮かんでいる思念や感覚を言葉に書き留めておくという日課をこなした。
その後、来週の月曜日に迫っている「成人発達とキャリアディベロップメント」のコースの最終試験に向け、コースで取り上げられている論文を読み進めていった。
今朝は、書籍の発売からまだ一夜しか経っていないが、早速「新刊JP」さんに書籍の取材インタビューをしていただいた。とても有り難いことである。 インタビューを終えた私は、論文の続きを読み、昼食前にランニングに出かけた。本当は明日ランニングに出かけようと思っていたのだが、嬉しいことに、今月からドイツに住むことになった知人が、フローニンゲンに明日遊びに来てくれることになったため、急遽、今日ランニングに出かけることにした。
今日のランニングは、地面に寄り添って走るというよりも、ランニングの最中に浮かんでくる思考や感覚と絶えず寄り添って走るという言葉の方が適切だった。走っている最中、一昨日辺りに考えていたことと関連して、再び笑みが自然とこぼれてきた。
何に対して笑っていたかというと、100歳の自分からしてみれば、今の私の生き方やあり方の未熟さを間違いなく笑うであろうということが、非常に可笑しかった。当然ながら、今の私の生き方やあり方の一端は必ず今後の自分に受け継がれていく。
なぜなら、過去の自分の段階を含みながら発達していくというのは、人間の成熟の肝にあるからだ。しかし一方で、100歳の時の自分は、今自分が課題だと思っている内面の問題を決して受け継いでいないだろう。
仮に100歳の時の私が、今日記に書き留めているようなことを書き続けていれば、世間は間違いなく嘲笑するだろう。日々の日記の中に書き留められる事柄は、今の私の発達段階に応じた課題から生まれてくるものであり、100歳を迎える時期において、今のような青い課題を持っているとは到底考えられない。
だが、今の私のできることは、そうした課題と真摯に向き合うことしかないのだと思う。課題に向き合うというよりもむしろ、私は課題の中にあり、課題そのものが自己だと認識している。
内面の成熟の道は、課題の中から課題を通じて課題から脱却していくことの中にあるのだろう。ノーダープラントソン公園を走る中、将来の自分からの微笑ましい視線を感じていた。
その視線を投げかける者に近づくためには、今この瞬間に走り続けているように、現在の課題を通じて毎日を生き続けなければならない。2017/6/16