昼食を済ませた私は、「成人発達とキャリアディベロップメント」のコースの最終試験に向けて、取り上げられた論文の再読を開始した。淡々と論文を読み進めていく中で、自己と社会に深く根ざした学びについて考えを巡らせていた。
私はこれからも、必然的に数多くの論文や専門書と向き合うことになるだろう。実際に、書斎の机には、この夏の休暇を利用して読みたいと思っている論文と専門書が山積みになっており、本棚にもこの夏の休暇を利用して再読をしようと思っている書籍がいくつもある。
同時に、七月に英国のアマゾンに注文する予定の専門書が40冊ほどあり、それらを読む中で二ヶ月強の夏季休暇を過ごせることは、どれだけ至福なことかを有り難く思った。こうしたことが可能な境遇に対して、私は祈りを捧げなければならない。
また、祈りというものが本質的に、人知を超えたものに対する感謝と共に、そこからの実践的な生き方を形作るためのものであることを考えると、私は日々、祈りながら仕事に従事していかなければならない。
ひょっとすると、これが信仰心を持った生き方の端緒なのかもしれない。祈り、働き、祈る。
そのような形で日々を過ごしていきたいと強く思うし、すでにそうした毎日を私は過ごしているように思う。これからも、日々祈り、日々働くことを通じて、向かうべき場所に向かい、働くべき場所で働き、生きるべき場所で生きたいと思う。 先ほど論文を読み進めていると、改めて、エリク・エリクソンやダニエル・レヴィンソンのライフサイクル理論に引き込まれるように文章を追いかけている自分がいた。確かに、構造的発達理論において、成人期以降の人間の内面の成熟というのは、年齢と直接的に結びつくものではないが、それでも年齢を基準とした発達課題というものも存在しているのは確かだろう。
特に、その個人が置かれているライフステージにおいて、エリクソンやレヴィンソンが指摘するような発達課題の妥当性は、未だに色褪せることはないように思う。当然、彼らが定義するライフステージの時期や特徴は、現代社会の性質と照らし合わせると、修正するべきところはあるだろうが、それでも彼らの理論の中に普遍的なものがあることは間違いない。
先ほどの私は、まさにそうした普遍的なものに共感する形で論文を読み進めていたのだろう。彼らの理論に照らし合わせて、今の自分の置かれている状況や行動特性を振り返ると、非常に納得することが多々ある。
ここでは詳しく書かないにしても、自分がなぜ知識の体系を構築することに執着し、それを通じて成そうとしていることの意味などが、彼らの理論を通して考えてみると非常に腑に落ちる。同時に、これから私が直面しなければならない未知な課題が、自分のこれからの道の上に大きく横わたっていることも知る。
時刻はすでに夜の八時を迎えたが、辺りはまるで夕方のように明るい。世界のそうした様子は、今の私の内側の様子と完全に合致している。
今後また深い闇が自分を訪れるのを知っているが、その先には常にこうした光があるのだと信じて歩みを進めていきたいと思う。就寝までに、まだ論文を読む時間が十分に残されていることを知り、その光はまた一層強さを増した。2017/6/15