午前中に計画していた論文を全て読み終えた私は、近所のスーパーに四日分の食料を購入しに自宅を出た。部屋のドアを開けてみると、夏を彷彿とされる熱気に包まれた。
その熱気は、螺旋階段の下から上に向けて上昇するような渦を持っているように思えた。自宅の中はあれほど涼しかったのに、部屋の外は初夏を思わせる暑さが漂っていた。
早朝に抱えていた脳の鈍重さはほぼ回復していたが、相変わらず自分の内側には黙想的な意識状態が続いている。全てを見ることなしに見ているような意識の状態を抱えながら、私はスーパーに向かって歩いていた。
スーパーに到着する前に渡らなければならない橋に差し掛かった時、私はある一つのことに気づいた。それはとても当たり前のことなのだが、今の私が追いかけている個別具体的な探究事項を人生の最後の日まで追いかけることはない、ということである。
言い換えると、今の私が探究心を持っている個別具体的な事項を、人生の残りの80年間をかけて今と同じようなやり方で探究しているとは到底思えないのだ。実際に、これまでの数年間を振り返ってみただけでも、私の個別具体的な関心事項は変化しており、探究姿勢や探究方法もまた変化しているのだ。
そのようなことを考えた時、今の関心事項とそれとの向き合い方が変化することを前提として、日々の探究活動を継続させていくことが賢明なのではないかと思った。つまり、それらは内面の成熟過程に応じて絶えず変化するものだということを念頭に置きながら、今この瞬間においてそれらと真摯に向き合おうとする態度が重要なのではないかということだ。
別の見方をすれば、それは、自らの関心事項とそれらとの向き合い方に対して距離を取ることであり、その距離がまた対象の奥深くへと自分を導いていくことを可能にするようなあり方だと見えることができるだろう。
「人生を終える80年後の今頃は、私は何をどのような姿勢で探究しているのだろうか」という素朴な疑問が、橋の上の私に投げかけられていた。スーパーで必要なものを購入した私は、自宅への帰り道、再度この橋の上に差し掛かった。
その時私は、先ほどの自分はもはやそこにはいないということを実感した。絶えず変化を宿命づけられた存在。それが人間なのだということに、私は橋の上で気づかされていた。
行き道で橋を渡った時の自分と帰り道でのそれを比べた時、すでに先ほどのテーマについてさらに異なる考えを持っている自分がいることに気づいた。確かに、80年後の自分は、現在向き合っているような個別具体的なテーマを今と同じような方法で向き合っているとは到底思えない。
それは正しいだろう。しかし、一つだけ先ほどの視点に欠けている重大なことがあった。
それは、私の人生を貫く主題そのものに変化はないだろうということだった。過去の探究者を振り返ってみたときに、ドストエフスキーやトルストイのような偉大な作家は、膨大な作品を残しながらも、それはごく限られた探究主題によって生み出されたことを知る。
また、昨日、何かのきっかけでふと作品を読みたくなった小説家の福永武彦氏は、「愛」と「死」を根幹テーマに据えて、数多くの作品を執筆していった。敬愛する森有正先生の場合、それは「経験」と「感覚」だろうし、辻邦生先生の場合、それは「美」だと言えるだろう。
そのようなことを考えた時、私の中で「発達」「意味」「言葉」を中心とし、それらと密接に関わった「教育」というものが、今後一生涯にわたって自分を捉えて離さないテーマだと思った。これらの主題は、今後一生私の内側にあり続け、私はそれらと寸分も離れぬ形で、千変万化する個別具体的なテーマを探究していくのだということを知った。
それらのテーマこそ、私の精神の中心課題であり、それらから離れる形で生きることはもはや私にはできない。自分の全てのものを自らの中心テーマに捧げ、それらのテーマから自分の全てのものが湧き出てくるようにしなければならない。
季節が夏へ向かっていることを感じながら、自分の内側の新たな夏が近づいていることを感じる。2017/6/11