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1155. オランダの大学院と米国の大学院


今日は午前中のうちに計画していた通りの数の論文を読み終えた。「タレントアセスメント」のコースの最終試験に向けて、午前中のうちに、パーソナリティアセスメントを含めた、非認知的能力のアセスメントに関する論文を六本ほど読み終えることができた。

たいていの場合、論文を音読し、音読によってすぐに理解ができない箇所や、音読によって体感的にそれが重要な文章だとわかった箇所には、黙読を用いて丁寧に読み解くか、音読を何度も重ねるようなことをしていた。

こうした作業を午前中の間ずっと行っていた。全ての論文に目を通し終えるあたりに差し掛かると、自分が短期間のうちにタレントアセスメントに関する知識体系の基盤を確立していることに気づいた。

今回のコースで取り上げられている項目の多くは、これまで私が積んできた発達測定の経験の内容とは随分と異なっていた。そうした意味において、私はある意味、小さな言語体系をまた一つ新しく確立することが求められていたと言える。それも短期間のうちに。

米国の大学院に留学していた際、そこでも四学期制が採用されており、各学期の中で、比較的に短い時間のうちにコースで取り上げられる言語体系を自分のものにしていくことが求められていた。しかし、当時を振り返ってみると、それはそれほど過酷なものではなく、基本的には自らの関心事項を中心に据え、その周りを補完していくような探究姿勢が通用していたように思う。

それを如実に示すのが、米国の大学院の各コースで課せられていたペーパーの類である。これらは基本的に、コースの内容に沿う形であれば、比較的に自由に自らの関心に沿って文章を執筆していくことができる。

他の学科を含めて一般化することはできないが、心理学に関しては、米国の大学院ではそのような形が採用されていたように思う。つまり、学生の関心事項を中核に据え、ペーパーの執筆を要求することによって、学生自らが自分の関心事項から同心円状に専門領域の言語体系を構築していけるような教育が提供されていたように思う。

一方、オランダにおいては事情が少しばかり異なる。心理学に限ってみると、米国式のペーパーを書かせる形で、学生の関心事項から同心円状に彼らの専門性を涵養していくというよりも、ペーパーを課すことはそれほど多くなく、自由記述式の試験を課すことによって、その道の専門家である教授が不可欠だとみなす知識項目を過不足なく習得することが要求されている、という印象を持つ。

特に、私が所属するフローニンゲン大学の心理学科ではそのような教育が施されている。そうした教育ゆえに、私は、自らが確立してきた既存の専門性から同心円状に専門領域を拡大するというよりも、全く異なる専門性の円を、これまでの専門性の領域の枠外に築いていくことを余儀なくされていた。

どうちらの教育方法にも一長一短があることは確かである。いずれにせよ、今の私はそのような形で自己の専門性を涵養していく状況に置かれているのは確かだ。

今回のコースにおいても、過去に私が築いてきた専門性の外に出て、そこで新しい言語体系を打ち立てていくことが求められていた。とりわけ、現在の所属大学が四学期制を採用しているがゆえに、二、三ヶ月という短い間に、履修するコースで要求される新しい言語を学んでいくような感覚だ。

昨夜も就寝前に、フローニンゲン大学の成績評価について考えていたのだが、そこでは、二、三ヶ月という短い間に、カート・フィッシャーのレベル表記で言えば、その新たな言語体系を最低でもレベル10で習得しなければ、単位が取れないような仕組みになっている。

たいていの場合、レベル0から出発し、速やかにレベル9の能力をコースで取り上げられる全内容について発揮できるようにしなければならず、最終試験においては、少なくともレベル10の能力レベルに達していなければ、単位の取得が危ぶまれるという仕組みになっている。

これは学習に充てることのできる時間の量を考慮に入れると、難題であることがすぐにわかる。そのようなことを昨夜考えていた。

結局、そうした状況を客観的に眺めてみたところで、履修コースの専門性が向上するわけではないので、再び論文を読み、それを書くことを通じて理解を深めていくという具体的な実践に従事したい。

夜から就寝前の一時間前まで、また論文を読む。2017/6/10

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