昨夜の夢の印象が、私の内側にまだ留まっている。昨日はとても寒い一日であり、それと足並みを揃えるかのように、昨夜の夢の中では、大量の雪が辺りに積もっている場面に遭遇した。
とても深い雪が街中を覆い、交通の動きが大変鈍かった。そのような中、外出をしていた私が自宅に戻ってドアを開けようとすると、積もった雪に阻まれて、ドアを速やかに開けることができなかった。フローニンゲンで知り合ったドイツ人の友人が車庫から私の自宅に入り、内側から表のドアを開けてくれた。
どんよりとした灰色の空の下、深い深い雪の降りしきる夢だった・・・。 夢から覚めると、真っ赤な朝日が空に昇っている様子が寝室から見えた。昨日とは打って変わり、今日は一日中晴れのようだ。
現在の気温は少し低いが、昼食前にランニングに出かけることになるだろう。昨夜の就寝前にあれこれと考えていたことが、まだ自分の内側に未消化なまま残っている感覚がする。
それらを文章の形にしておきたいと思う。その論点は、昨日の日記でも取り上げていた「リフレクション」についてである。
昨夜の私はやはり極端な思考を持っており、「リフレクションを実践する際には、二つの選択肢のどちらか一方を選ぶしかない」ということをつぶやいていた。一方は「無間地獄に続く道」であり、もう一方は「感想会に興じる道」である。
世間一般で行なわれているリフレクションは、感想会に興じる道の上で行なわれていることであり、本質的なリフレクションは無間地獄の道の上でなされるものである。そのようなことを強く思っている自分がいた。
そもそも「リフレクション」というものが、単なる感想を述べることではないことは第二弾の書籍の中で言及している。昨夜の私は、書籍の中の説明とは異なる形で既存のリフレクションとより本質的なリフレクションを捉えているようだった。
世間一般で行なわれているリフレクションとは、私たち各人が持つ意味構築装置から生み出された表層的な現象を捉えることに終始している。そうした表層的な現象に意識を当て、気づきや発見を得ようとする様子は、感想会における単なる思いの吐露にしか私には見えないのだ。
己の意味構築装置から生み出された表層的な現象に焦点を当てる行為は、ピアジェが提唱した「内省的抽象化(reflective abstraction)」というリフレクションの本質を骨抜きにしている。内省的抽象化というのは、内省を通じて自分の思考そのものを検証することを指す。
ここでの文脈で言えば、意味構築装置から生み出された表層的な現象に思考を当てるのではなく、意味構築装置そのものに思考を与えることだ。まさに、リフレクションの本質は、私たちが持っている既存の発想の枠組みそのものを検証することにあり、意味構築装置そのものの質を検証することなのだ。
ピアジェが提唱した内省的抽象化という言葉を用いれば、リフレクションの本質をそのように捉えることができるだろう。そのような考えに至った私は、少しばかり苛立ちの感情を持っていた。
「そのようなリフレクションも話にならない」という一言が私の口から漏れた。リフレクションにはさらに深い本質があるに違いない、という思いが私を離さなかった。
意味構築装置そのものを検証することは、リフレクションの道半ばであり、それは本質ではないことに気づかされた。リフレクションの本質は、意味構築装置そのものが立脚している基盤を検証することなのだ、という確信めいた考えが浮かんだ。
つまり、リフレクションの本質は、個人の意味構築装置そのものを呪縛している集合的な発想の枠組みを検証することにあるのだと思う。私たちはリフレクションを通じて、意味構築装置が生み出す表層的な現象に囚われるのではなく、そうした現象を生み出す私たちの発想の枠組みそのものを検証し、そこからさらに、私たちの発想の枠組みそのものを呪縛する集合的な発想の枠組みそのものを検証していかなければならない。 ここで私は再度、昨夜の自分がなぜリフレクションを「無間地獄を歩む道」だと認識していたのかを思い出していた。その時に浮かんでいたのは、リフレクションという言葉が想起される「鏡」のイメージだった。
上記の説明をもとにすれば、世間一般で行なわれているリフレクションというのは、鏡に映る自分の姿しか捉えようとしないと言える。そこでは、鏡そのものを疑うという姿勢が皆無なのだ。
そうであるがゆえに、鏡に映る自分に対する単なる感想しか述べることができないというのが、世間一般のリフレクションの姿だろう。しかし、少なくとも私たちが行わなければならないのは、その鏡そのものを検証することなのだ。
実際には、自分の拳で鏡にひびを入れていく行為がリフレクションの本質を突いている。真のリフレクションが既存の発想の枠組みからの脱却を実現させるものであるならば、私たちは既存の鏡を打ち砕く必要があるのだ。
既存の鏡を打ち砕いた瞬間に、さらに新たな鏡が私たちの眼の前に立ち現れる。その鏡に対してもまた、内省という自らの拳を用いてひびを入れていかなければならない。
既存の鏡を打ち砕き、さらに新たな鏡に対しても同様のことを行わなければならないという人間の姿、すなわち、自らの拳に血を流しながら、永遠と自己の内側の鏡を壊し続けなければ成熟などなしえない人間の姿が、昨夜の私には「無間地獄」のように思えたのだ。
そこから一夜が明けたが、私の内側にはやはり、このまま「感想会に興じる道」を歩むのか、「無間地獄に続く道」を歩むのか、腹を括って決断しなければならないという思いがある。2017/6/10