昨日は多くの時間を論文を読むことに充てていたため、文章を書く時間がほとんどなかった。そのような日は決まって、就寝前に表現を待つものたちが騒ぎ出す。
昨夜も実際に、その日に自分の内側から外側に表現するべきであった思考や感覚が暴れ出し始めた。速やかに入眠することができず、私はベッドの上で独り言をいくらかつぶやいたり、表現すべきであったものたちの騒ぎに頭の中で付き合っていた。
就寝前に自分を捉えた論点は複数にわたっているが、その中でも一つ、第二弾の書籍『成人発達理論による能力の成長』の内容と関係するものと向き合うことに多くの時間を使っていた。これはおそらく、本書の第二章と第三章の主題に関するものである。
先日、日本に在住の日本人の方とオンラインで話をする機会があり、その方の話によると、日本では「生産性」という言葉が注目を浴び、生産性の向上を目指す動きが高まっているそうだ。私が本書を通じて訴えようとしていたのは、そうした生産性の拡大や向上とは真逆の発想の大切さである。
言い換えると、間違っても人間の成長というものを、生産性の向上の名の下に推し進めてはならないということを指摘したかったのである。より正確には、私たちの成長を既存の経済原理の枠組みで捉えては決してならないのだ。
なぜなら、人間の成長に横たわる本質と既存の経済原理の発想は相容れないものだからだ。人間の成長速度は極めて遅く、緩やかな成長というのが自然な姿である。
一方、既存の経済原理の発想は、いかに早く効率的に大量なものを生み出していくかという点に根ざしている。仮にそうした発想を私たちの成長に適用してしまうと、それは悲惨な結果を招いてしまうことになるだろう。
既存の経済原理の発想、特に最近広まりつつある「生産性の向上」という発想によって人間の成長を捉えようとするとき、私たちはさらなる成長を遂げられないばかりか、歪な成長が実現されてしまうだろう。そして、往々にして、既存の経済原理の下で語られる「成長」というのは、量的な拡大であり、質的なものを蔑ろにすることはまた別の大きな問題である。
ここで私は何も、「生産性の向上」という言葉そのものの悪性を指摘しているわけではない。そうした言葉が既存の経済原理の枠組みに立脚する形で発せられていることが問題なのだ。
どうして私たちはそれに気づかないのだろうか。そのようなことばかりを昨夜の就寝前に考えていた。
生産性の向上という言葉と合わせて、「自己実現」という言葉も依然として力を持った言葉だろう。この言葉に関しても、確かにアブラハム・マズローが指摘するように、私たち人間には自己実現欲求なるものが備わっているため、自己実現を希求するということは至って自然である。
しかし、極めて不自然に思えるのは、本来、自己を呪縛する社会的な思想や仕組みを超えたところでなされるはずの自己実現が、既存の社会的な思想や仕組み、特に既存の経済原理の枠組みの中で捉えられていることである。
私たちは、既存の経済原理の枠組みを通じて自己実現や自己の成長を捉えてはならないのだ。結局そこでの自己実現や成長というのものは、単なる量の追求であり、速さの追求である。
既存の経済原理の枠組みに立脚した「生産性の向上」や「自己実現」という言葉を通じて人間の成長を捉えようとする未成熟な発想から脱却しなければならない。私たちはいつになったら目覚めるのだろうか。2017/6/10