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1146.「リゾーム(地下茎)」と認識の枠組みのベクトル転換


今日は非常に寒い一日だった。「涼しい」というよりも「寒い」という表現が最も妥当な体感温度であった。

先ほど、今日の仮眠中の意識内の現象について振り返った後、それに類似したまた別の現象について考えを巡らせていた。フランスの哲学者ドゥルーズとガタリが提唱した「リゾーム(地下茎)」と呼ばれる概念について考えていた。

先ほどの仮眠中で私が触れていた世界というのは、確かに無意識の世界なのだが、そこは「無」が支配する世界ではなく、むしろ逆に「有」で充満した世界のように思えた。そして、その有を形作っているのが、無数の概念や感覚群、さらには概念や感覚を生み出す原型のようなものであることに気づいた。

まさに、それらは無意識の世界の中で、無数の茎のように繁茂している。そして、それらの生成はとどまることを知らず、絶えず新たな茎を生み出している。

そのような世界が自分の無意識の領域に広がっていることを以前からうすうす感じながらも、最近はそれについて確証的な思いを持っている。そうした思いに至らしめたのは、まさに夢見の意識の中でそうした地下茎に触れる実体験を積んできたことだ。

今の私は、この止むことのない無限の生成を絶えず観察しようとし、その生成の足取りをさらに加速させるような試みに従事していることを知った。一人の人間が保有しうる地下茎の絶対量そのものに強い関心があり、それはどのような質的な変容を遂げていくのかにも強い関心がある。

こうした地下茎こそが、まさに生成を宿命づけられた私たちの本質に眠っているものであり、それらは生成の産物でありながら、生成をもたらす創造者でもあるのだと思う。 自分の内側に存在する地下茎について少しばかり考えを巡らせたところで、昨日に考えていた、自分の世界認識の枠組みの変化についてその続きを考えていた。

第二弾の書籍『成人発達理論による能力の成長』を執筆する前あたりから、成人発達理論や発達心理学の枠組みは私にとって最重要なものであるのと同時に、その枠組みを通じた世界認識のあり方を少しずつ緩め、全く異なる世界認識の枠組みを通じて物事を捉えていくことが重要だという思いが強くなっていた。

そうした問題意識の萌芽は、オランダに向かう前の日本での滞在中にも見られていたことだ。オランダで何をしようとしていたかというと、人間の発達を複雑性科学と応用数学の枠組みを通じて探究していくことであった。

同時に、発達心理学にせよ、応用数学にせよ、発達科学や複雑性科学と形容される科学的な認識の枠組みそのものを検証するような「科学哲学」を探究する動きが自分の内側の中に見られていた。そうしたこともあり、昨日改めて思っていたのは、過去数年間の自分はいかに発達心理学の枠組みのみに依存する形で、何らかの現象や他の領域を眺めていたかということである。

これはもちろん、専門性の確立の段階において通らなければならない道である。ここをいかに徹底して歩み通すかが、確固とした専門性の確立を左右するのは間違いない。

つまり、専門性の確立の時期にあたっては、その領域固有の認識の枠組みを用いて世界を眺め、その領域固有の言語体系を用いて現象を説明するという鍛錬を徹底的に積まなければならない。

これを避けていては、専門性の確立など到底不可能であり、それは発達心理学の研究によっても明白だ。当然ながら、これからも私は発達科学に関する専門書や論文と向き合い続けていくが、最近の私の探究姿勢を見ると、発達科学とは全く異なる学問領域の専門書や論文を知らず知らず読んでおり、これはおそらく新たな世界認識方法の確立に向けた動きだろう。

言い換えると、これまでの自分にはない新たな専門性の確立であり、同時にこれまでの専門性を、新たに確立しようとする領域の認識の枠組みを通じて検証し直すという試みである。「あぁ、ベクトルの向きが変わった」と昨日の夕食中につぶやいていたのは、おそらくそういうことだろう。

これまでは、発達心理学を含めた発達科学の認識の枠組みを通じて他の領域を捉えていたのに対し、今は他の領域の認識の枠組みを通じて発達科学を捉えるという方向転換が起こっている。

そうした認識の枠組みのベクトル転換は、一瞬にしてなされた出来事であるがゆえに発達の非連続性を示すものであり、それがこれまでの経験の蓄積によってもたらされたものであるがゆえに発達の連続性を示すものだった。2017/6/7

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