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1145. 睡眠中の意識の中で進行するものと切断されぬ鎖


今日は朝から雨が降り注ぐ一日だった。昼食後、いつものように仮眠を取っていると、ここのところ睡眠中の意識内で興味深いことが起こっていることに気づく。

端的に述べると、睡眠中の意識の中で、私は自らの知識体系の整理と構築を同時に行っているようなのだ。午後の仮眠の最中も、覚醒意識と夢見意識の狭間で、午前中に内側に入ってきた知識の整理と、それを既存の知識体系の中に組み込んでいくという構築作業を同時に行っているようだった。

こうした作業過程において、いつも興味深いのは、そこで新たな言葉を自分が発見することである。より正確には、知識体系を整理し、新たな知識体系を構築する際に不可欠となる新たな言葉を自らが生み出しているようなのだ。

これは私が私と思っている存在が行っている作業ではなく、深層的な私の意識が自律的に行っている作業である。そのため、仮眠から覚めた瞬間に、仮眠中に自分が新たな言葉を獲得したことに気づけるのだが、それがするりと覚醒中の自分の意識からこぼれ落ちてしまうことがある。

本日の仮眠中も間違いなく、既存の知識体系が整理され、新たな知識体系への一歩を進めるための言葉が生成されていたのだが、それが何かを今の私は覚えていない。そうした様子を見るにつけ、知識体系の構築作業は、意識的なものであり、なおかつ無意識的なものだと言える。

さらには、知識体系というのは自己の深層的な部分に息づくものなのだということにも気づかされる。ここから思うに、浅薄さの漂う発言というのは、発話者の知識体系が自身の深層的な部分に根ざしていないことに一因があるだろう。 仮眠を終えた私は、食卓に行き、午後からの仕事に備えてコーヒーを注ぎに行った。コーヒーの入ったポットに触れた瞬間、「仮に罪を科せられることなく、一人の人間をこの世界から葬り去ることができるのであれば誰を選ぶか?」という問いかけにぶつかった。

私はその問いに対して、「過去の自分である」と即答した。以前の日記に何度か書き留めているように、私の内側には絶えず、これまでの自分のあり方や発想の枠組みを痛烈に叱責しようとする激しい欲求がある。

先ほどの回答の中で指摘された「過去の自分」とは一体どれほど遡った過去の自分なのか?という疑問が浮かんでいた。それは幼少時代の自分ではなく、比較的最近の自分を示していることがわかった。

具体的には、日本を離れ、米国で生活を送っていた時の自分であり、米国から日本へ戻ってきた際の自分であった。誰しもが一度は必ず考えたことがあるであろう、自己の同一性に関する問題について、仮にその同一性の鎖を切断した場合、私の内側で何が起きるのかに関心がある。

結局、このような鎖は切断を望んでも切断することができないのだが、そうした不可能性を理解していても、仮に自己同一性の鎖を切ることができたら、今の自分はどうなるのかに強い関心があった。

そして、おそらく私は、決して切断されぬそうした鎖を何としてでも断ち切りたいのだと思う。2017/6/7

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