夕食を食べながら、食卓越しに見える窓に向かって独り言をブツブツとつぶやいていた。それはつぶやきというよりも、誰かに訴えかけるような、そして、自分自身に訴えかけるような言葉の連なりだった。
夕食時に私が何かを訴えようとしていたのは、第二弾の書籍『成人発達理論による能力の成長』に関する主題についてである。これまでの日記の中で、この作品全体を貫く主題と序章と第一章に関する主題に触れていたように思う。
先ほどは、第五章の主題に関わるような内容を一人であれこれとつぶやいていた。第五章の中でも、とりわけ「内省(リフレクション)」の実践について思うことがあった。
内省実践そのものに対して、そして内省の核となる「概念化」と呼ばれる、自己の経験や知識に自分の言葉を与える実践に対して思うことがあった。内省や概念化の実践に終わりなどないことは明白であるが、それをどの次元まで推し進めるべきかに関しては、一つの到達地点のようなものがあるように思う。
内省の実践というのはそもそも、感想を述べることや内側の基準を単純に外側に表明するようなことではないことは本書の中でも指摘している。内省というのは、健全な自己批判の眼を持ちながら、自己の経験や知識を再解釈することであり、再解釈を通じて新たな意味づけを行っていくことである。
本書では言及していなかったが、結局、そうした内省をどこまで推し進めていくべきかというと、自己の意味構築装置が立脚している存在の基底まで深く行うべきである。つまり、内省を通じて、自らが構築する意味が、どのような意味構築装置によって生み出されているのかを把握するだけでは不十分なのだ。
それを超えて、自らの意味構築装置そのものが何を基盤として生み出されているのかを掴むところまで内省を推し進めていかなければならない。より端的には、自らの意味構築装置が、私たちを取り巻く組織や社会のどのような思想的枠組みや制度的な仕組みに立脚しているのかを把握するところまで内省を進めていかなければならない。
さもなければ、私たちは結局のところ、自分が置かれた組織や社会の特殊なルールに無自覚なまま、個人的なたわいもない擬似的な内省実践を永遠にすることになってしまうだろう。
本書では明示的に書くことをしなかったが、真の内省実践は、自らの内側の声を獲得することのみならず、その声を通じて、自己の存在そのものを呪縛する集合的な思想や仕組みに自覚的になるところまで到達しなければならないように思うのだ。
仮に、内省を通じて他の専門領域の人たちと協働作業をすることを意図するのであれば、自分の専門領域の基底に到達するまで内省実践をしなければならない。さもなければ、自らの専門性がどのような思考の枠組みに立脚しているのか、そして、立脚する構造が抱える盲点や限界が何なのかに永遠に気づくことができないだろう。
さらに、自らの専門領域の基底に到達しないまま、他の専門領域に越境していくことは、根の無い浮き草の移動に過ぎない。そのような状況では、決して他の領域の専門家との真の対話など実現せず、自らの専門性を意味のある形で発揮することなどできないだろう。
強靭な思考を持っている専門家というのは、やはり自己の専門領域の基底に到達しているがゆえに、腹から声を発することができるのだ。また、錨が専門領域の基底に降ろされていれば、何のためらいもなく多様な領域に乗り出していくことが可能なのだと思う。
それこそが、真の内省実践を通過した、強靭な思考を持ちながら多様な領域を柔軟に越境できる専門家の特徴だろう。2017/6/6